2011年10月 2日 (日)

ホワイト・ドラマ

STYLE.COMの、コム デ ギャルソンの評論が素晴らしかったので、翻訳してみました。
Comme des garcon 2012ssについての記事です。

http://www.style.com/fashionshows/fullscreen/S2012RTW-CMMEGRNS/


PARIS, October 1, 2011
By Tim Blanks

今回に限っては、川久保怜の新しいコム デ ギャルソン コレクションでの謎めいたヒントが完全に理解できた。ショーの公式なキーワード(summation)は「ホワイト ドラマ」。ショーは、人生のドラマティックな停車駅を、順に辿ってゆくように感じられた;すなわち、誕生、結婚、死、超越を。
それぞれの白をまとう瞬間を飾りつつ、明確な儀礼性を付け加えるもの、それが伝統(tradition) だ。伝統は、川久保の白に満たされたコレクションに魅力的な共鳴(echo) をもたらしている。
ウエディングドレスの高級サテン地(duchesse satin)や、洗礼用のガウンのように明瞭な共鳴もあれば、白い花の中に置かれた遺体や、セビリアのセマナ・サンタ(Semana Santa,聖週間)の期間に高僧がまとう頭のとがったローブのように、もっとおぼろげな共鳴もある。

衣服の儀礼的厳粛性と、(ショーでの)衣服の厳かな見せ方からは、もうひとつの共鳴も感じる。それは、50-60年代のクチュールからの影響だ。その影響は、2012年春の中に深く埋めこまれている。もっとはっきり言うと、とても信心深く、クチュールという工芸を魂の探求というレベルまで高めた男、クリストバル・バレンシアガのスピリットがあるのだ。バレンシアガは、完璧な袖の中から、魂の救済を見つけられると信じていた。
袖が今回のコムデギャルソンのコレクションの特徴的ディテールであること(長く、広く、ほとんど床近くまで落ちている)は偶然の一致だろうし、ショーが救世軍の建物で行われたことも偶然の符合だろう。
それでももちろん、あなたはこれが偶然の一致などではないと信じるだろうし、結論として、不可避的に件の結論に達するのは簡単だろう。すなわち、プレゼンテーションが霊的次元に達しているということである。

これは、今年日本を襲い、今なお毎日行われている生と死のドラマに対する川久保の反応である、と言いたい誘惑にも駆られる。
しかし、このショーについてそう言うのは、その根本テーマにもかかわらず、いかめしすぎるように思う。ショーは、ひょうきんなディテール、たとえば3人のアーティストから提供されたヘッドギアや、(ヴィヴィアン?)ウエストウッド風のスカートの張り輪、俗な雰囲気のレース入りの下着でアクセントをつけ(spike)られている。
白いブーツは原子炉の技術者が履くものかもしれない、しかし同時に、それらは熱狂的な60年代のクチュールでもありうるのだ。


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服は直接STYLE.COMをあたっていただくとして、参考資料です。


洗礼用ガウン(christening gown)
http://www.babygiftsandclothes.com/christening_gown.html より引用

Christening_dress


セマナ・サンタ
http://www.spain-column.com/2006/08/_vol10.html より引用

1001


バレンシアガのクチュール

Balenciaga

以下、元記事。

Comme des Garçons Spring 2012 Ready-to-Wear

PARIS, October 1, 2011
By Tim Blanks
For once, Rei Kawakubo's cryptic clue for her new Comme des Garçons collection made perfect sense. "White drama" was a precise summation of a show that felt like it tracked a progression through life's dramatic way stations: birth, marriage, death, transcendence. Tradition drapes each of those moments in white and attaches distinct rituals to them, which set off some fascinating echoes in Kawakubo's all-white collection. Some were as obvious as the duchesse satin of a wedding dress or the lace of a christening gown; others were more oblique, such as a reference to a body laid out in white flowers, or the pointy-headed robes worn by church dignitaries during Seville's Semana Santa.

The ceremonial grandeur of the clothes and the stately way they were shown felt like yet another echo of the fifties/sixties couture influence that has insinuated itself into Spring 2012. More specifically, there was the spirit of Cristobal Balenciaga, a deeply religious man who elevated the craft of couture to the level of spiritual quest. He believed he could find salvation in the perfect sleeve. It was probably coincidence that sleeves were the signal detail of the Comme collection (they were long and wide, falling almost to the floor), just as it was probably coincidence that the show took place in a Salvation Army building. Unless, of course, you believe there is no such thing as coincidence, a conclusion that was easy to reach given the presentation's inescapable spiritual dimension.

It was tempting to see in that a response by Kawakubo to the disasters that afflicted Japan this year, with life-and-death dramas still being played out every day. But that sounds unduly solemn for a show that, for all its grand theme, was still spiked by drollness in details such as the headgear contributed by three different artists, the Westwood hoops, and the lacy lingerie trims that introduced hints of carnality. Yes, the white boots might be worn by technicians in a nuclear reactor. But equally, they could be sixties couture a-go-go.

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2010年12月23日 (木)

ノルウェイの海

先日来、映画『ノルウェイの森』の、あるシーンをくりかえし反芻しています。
それは、直子が自死したあと、ワタナベが海辺で泣くシーン。

原作でも、日本海側をわずかな荷物を持って旅して、海辺で泣くシーンはあったかな。確か、あまりにひどい姿に漁師に同情された、というエピソードだったような気がする。でも、それはミドリとの会話の中でちらりと出てくるだけで、あそこまでリアルに泣いている描写はなかった、と思います。
身も世もなく、という言い回しがあるけれど、ほんとうにその表現がぴったりするほど泣いているワタナベ。これこそ、映画にしか描けないシーンだと思います。

ワタナベの涙とヨダレが一つの筋になって、日本海の風に吹かれる。それは、流れ落ちることなく、いつまでも風の中でブラブラ揺れ続ける。

背景にはインスタントラーメン(?)の食べたあとがあったりして、それがまた哀しい。人は、大事な人を亡くしてもお腹が空く、という単純すぎる事実。泣いて、泣いて、泣いて、でも、いつか泣き止むことが出来るのは、、、、一つの希望のありよう、というしかない気がします。
希望と絶望が等価な、感情の彼岸。そこには、いきものの哀しさがあります。

直子の象徴する幻想的な世界と、ミドリの象徴する現実の世界。その二つの間で分裂しながら生きてきたワタナベが、「やっぱりお腹は減る」「やっぱり性欲はある」という事実をテコに、現実に戻ってくる、、、、なんだか、とても哀しいんだけど、それはとてもうなづけるのです。

現実に戻ってきて、せっかくのミドリとの電話にもぼーっとして「僕は今どこにいるんだろう」とボケをかますワタナベだけど、願わくば、次にミドリと会った時には、とても激しくて気持ちのいいセックスをしてほしいなあ。

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2010年12月13日 (月)

深い森の奥から~映画『ノルウェイの森』からの帰還~

今日、映画『ノルウェイの森』を見てきました。

見終わったいま、とても、感情的に動揺しています。なので、見てきたばかりのこのタイミングで何が書けるのかという気もするのですが、書かずにいられないというところもあり、蛮勇をふるって「みみをすます」を書き始めてみます。


なんか、とてもフィジカルな映画、というのが最初の印象でした。うーん、この言い方、正確なのかなあ。。。。。

小説の『ノルウェイの森』になじんできた私からすると、とても困惑したことは確かです。たとえば、セックスの描写ひとつとっても、(小説と同じ状況にもかかわらず)生身の役者さんが演じている分、そこには確かな肉体性というものが宿ってしまう。映像だと、セックスのシーンでこんな声を出して、こんなふうに身体を反らし、こんなふうに眉をひそめるんだ、という、とても具体的なものが見えてしまうので、すごく自分から離れた光景に見えてしまうのです。
それは、背景となった学生運動で荒れる大学とか、お誕生日ケーキのおいしくなさとか、いろいろな場面でで同じ感想を持ったのですが、、、、、、、
それぞれの光景は(当然ながら)私が経験してきた大学や、セックスや、お誕生日ケーキとは違うわけで、小説を読んでいる時に感じていたリアルさとは、絶対的な距離感があるのです。
平たく言えば、活字を追っていたときは、まさに自分の恋愛の変奏曲のように感じられていた親密さが、映画となってしまうと、明らかに別の誰かの物語として見えてしまうわけです。


私には、直子は骨太すぎるように見えたし、緑は繊細すぎるように見えました。配役が逆でも成立するよな、みたいな。

要するに、映画での二人は交換可能な感じなんですね。立場がちょっと違えば、二人は逆でもありえたような。
でも、小説の『ノルウェイの森』のリアリティはそういうところになくて、直子は不安定な気持ちの中でしか生きられなかったし(死ねなかったし)、緑は、真っすぐ、時にうっとおしがられながらもワタナベを愛さざるを得なかった。それぞれが、別な意味で押し付けがましいキャラを持っている。そういう意味では、二人ともめんどくさいキャラなのです。
その二人の間の溝こそが、小説の読みどころだと思うのだけれど、映画では、そうでもなかったですね。特に、緑と向き合うときのめんどくささ(と、それゆえのいとおしさ)がちゃんと描かれていない気がしました。

余談ですが。
やっぱり菊地凛子さんについて考えざるをえないなあ。精神的に不安定な人を演じるのって、女優のひとつの典型だと思うのですよ。アカデミー賞に近づけるというか。直子みたいな役を、菊地さんが自ら手を上げてやりたいといってしまうのは、すごくよくわかる。そして、その役作りに全精力を傾けたい気持ちも、彼女の中での必然性も、、、、、菊地さん自身の性向も含めて、分からないではない。
でも、やっぱり私は、そういう菊地さんに違和感を持ち続けるんだろうなあ。

ああ、いまなんとなく分かりました。小説の中の直子は、「直子を通じて自分のある部分を見せたい」みたいな女優の性(さが)とは無縁だし、そもそもそういうギラギラした感じとはすごく離れたところにいるわけです。そういうのを、画面は正直に映し出してしまいますからね。とはいえ、菊地さん以外に直子が演じられたかというと、またそれは難しいところなんですが。

強引にまとめると
、、、、、、、、、、
女優さんがみんなミスキャスト、ということになるんでしょうか。

でも、一方では、緑を演じた女優さん、大好きでもある。
小説で描かれたような、生と死に見事に対応するような緑と直子ではなく、どちらも似たところを持って、でも魅力的な緑と直子、その二人の間で揺れるほうが、多くの人(私も含む)にとってはリアルな物語ではあるのかもしれません。

最後に、音楽。
映画では、Canの名曲てんこ盛り。 "She Brings The Rain"など、なつかしい曲が、きちんと場面に呼応されて流れています。当時、本当にCanを聞いていたひとがどれぐらいいるのかわかりませんが、抽象的に70年代初期を象徴する音楽だと思います。

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2010年4月30日 (金)

沢尻エリカ様と『ねじまき鳥クロニクル』と拒絶の物語

今日、ワイドショーで沢尻エリカさんの一連の離婚騒動を時系列で復習しているのを見ました。
私は、今もって「沢尻エリカさんってこんな顔してるんだ」、ぐらいの芸能オンチです。そんな私が、わざわざブログにまで書こうと思ったのは、なんとなく、「キモい」と夫の高城剛を拒んだエリカ様の発言に気になるところがあったからです。

芸能ニュースを聞いて私が最初に思ったのは、「これって、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』じゃん。」でした。
『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公の妻が全く予兆もなしに失踪します。やがて主人公のもとに義理の兄が代理人としてやってきて、「妹は、君には会いたくないといっている、離婚して欲しい」と言うのです。しかし、主人公は、「妻と直接話をするまでは離婚には応じられない」と、義兄をかたくなに拒みます。
義兄と主人公が妥協点を探るうち、結局、チャット(ちょっと昔に流行った、パソコンの画面を介したリアルタイムでのテキストのやりとりのこと。会話は文字だけで、顔も見えず、声もきこえません。なんだか時代を感じる小道具ですね)なら妻と話ができることになり、会話する。
小説では、この会話の場面が一つの山場になっています。妻の声もなく顔もないため、遠く離れた場所でパソコンのキーボードに向かっているのは本当に妻なのか、主人公は確証が持てません。文字で、二人だけしか知らない秘密を語られても、画面の向こうの相手が確かに妻だという確証が抱けないのです。まるで、チューリングテスト(被験者が文字だけで相手と会話し、その会話だけで相手が生身の人間か、パソコンかを見分ける実験。原理的には見分けられないとされる)のような状況ですね。
これに先立つ妻からの手紙で、妻は、画面越しに結婚後の浮気を告白しています。そして、そのいくつかの状況証拠は、主人公にも思い当たるところがあるものでした。
パソコンでの会話は、そのだめ押しとなって、主人公は画面の向こうの妻の言葉を信じ始めます。だとすれば、妻の主人公への裏切りはずいぶん前から続いており、失踪も計画的なものだったということになります。

エリカ様の場合も状況はとても似ていて、夫の高城剛さんは、直前まで妻が離婚を考えていることすら気がつかなかったそうです。
しかし、ある日突然、エリカ様へは電話もメールも通じなくなる。そして、一方的にウエブを使っての一方的な離婚告知があり、彼のもとにエリカ様の兄が現れ、妹が離婚したいといっている、と交渉を始める。
芸能リポーター氏の話によれば、沢尻エリカさんのほうは、事務所との契約など、復帰後のレールをこっそり敷いた上での、計画的な離婚発表だったことがわかってきた、ということなのです。
なんだか、主人公の男性と妻とのディスコミュニケーション具合がとても似てると思いませんか。

話は飛びますが、2,3日前にスポーツ新聞の表紙に「キモい」と大書してあって、何のことかと思ったら、エリカ様が高城剛さんを「キモい」と言ったという報道でした。たまたま同僚の妙齢の女性と食事していたときだったので、その「キモい」の話になりました。
彼女によれば、女性はいくら大好きな相手でも、突然全てが許せなくなってしまっていることがあるというのです。そうなってしまうと、今まではなんとも思っていなかったちょっとしたしぐさやクセが鼻について許せないものになってしまう。そういう気持ちを「キモい」というのだけれど、そうなってしまった後では、相手に「なぜキモいと思うの?」「君の前でやらないように気をつけるから、何がキモいのか教えて」と、問い詰められること自体が「キモい」というのです。
「キモい」と言う時は、言っている本人にも明確に理由がわかっているわけではないのです。分かっていれば、まだ関係を修復する余地もあるでしょう。
そうではなくて、「キモい」とは、「生理的になんとなく不快なんだけど、それがなぜか突き詰めると本当に不快になってしまうから、深く考えずに目をそらしている」という時にいう言葉なのです。「キモい」という場合には、「理由を考えたくない」。そして、その先にはコミュニケーション拒否の深い谷が広がっていて、関係を修復するすべはないのです。

『ねじまき鳥クロニクル』の妻とのチャットのシーンでは、主人公が妻に執拗に「離婚したいと思う訳」を聞こうとし、妻は執拗にはぐらかす、という図式でした。

しかし、様々な秘密を明らかにした妻が、たった一つ明らかにしなかった秘密、それは「夫をキモく感じた」ということだったのでしょう。エリカ様を見る限り。

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2010年4月18日 (日)

いくつかの「もし」 ~1Q84 ing なう~

「1Q84 ing なう」 。

ご無沙汰です。

村上春樹の新刊の話題ですが、後半はネタバレありますので、未読の方はご注意ください。
改行はしてありますけど、、、、、。


さて、なんだか売り切れている書店もあるらしい、村上春樹の『1Q84 Book3』。
昨日ちらりと覗いた書店では平積みの山積みが残っていたので、地方書店では売り切れの心配は要らないのかもしれませんね。
とりあえず、昨日読み終わりました。


読み終えて、まずはTwitterを覗いてみました。(Twitter、最近ようやく始めたのです。)読んでいる間は、ネタバレするのが嫌であえて検索を我慢していたんですが、"1Q84"を検索すると、予想通り、「読了」「お風呂で○章まで読了」とか、「○書店完売」とか、さまざまな呟きが飛び交っていました。
(ちなみに、内容をネタばらしするような書き込みはほとんどなかったけど、一部「読書ノート」的に使っている人もいるので、未読の方はTwitterは覗かない方が賢明です。)

これを見て思ったのは、意外にツイッターをやりながら読み進める人が多いんだな、ということでした。Twitterの共時感覚は、「同じ本を一斉に読む」というイベントにすごく向いているようです。読み終わっての感想だけでなく、書店に行ったけど買えなかった人、途中まで読み進めた人、眠くて中断する人、、、、、それぞれが、各自の生活時間の中で、それぞれの形で同じ本に関わっている、というのがわかるのがおもしろいのかもしれません。


これがTVとなると、ツイッターとの連動の可能性は大変なものがあると思います。たとえば、ちょっと前に話題になった、NHKスペシャルとU-STREAMの同時放送。簡単に言うと、地上波での生放送のウラで、ネットでも生放送をする、というものです。、、、、これでは簡単すぎでわけがわからないですね(笑)。
最近は、ネットで、個人的に動画を配信する技術がすごく進んでいて(中には自分の部屋から日常生活を生中継する人までいます)、その一つがU-STREAM。ここを利用して、NHKの生放送を見ながら、ネットの有名人(ホリエモンさんなど)があーだこーだ言う、というNHKの「裏番組」を、作っちゃったのです。カメラは1台で、ほとんど固定カメラですから、たぶん裏方さんも最小限の人数で安く作っていると思います。
いわば、「メタ番組」を作るわけですね。
この「裏番組」には、NHKの番組の映像も音声も一切出ないので、著作権的な問題は全くありません。見る側は、テレビをつけながら、パソコンの動画配信を見ることになります。

ついでに言えば、NHKスペシャルの内容についても、U-STREAMについても、別々にTwitterされていましたので、「テレビ」「パソコン動画」「テレビについてのツイッター」「裏番組についてのツイッター」を同時に見るという、見る側にとってはすごく大変な、聖徳太子風の視聴スタイルでした。私も、どっちかを追えばどっちかがお留守になってしまうので、みんなテキトーにしか見聞きできなかったのですが、、、、、

でも、面白かった!
例えば、今後は、オリンピックの生放送を見ながら、そのウラ舞台を知るOBが、言いたい放題の放送をウラでやったり、、、。このアイディア、裾野がすごく広いのです。放送であれば流せないような罵詈雑言も飛び交ったりしたので、かなりの悪評も買ったようでしたが、私にはものすごく画期的なフォーマットに見えました。


一方、本の場合は、読み進める速度がみんな違うのでテレビほどの完全な共時性が楽しめません。このへん、古いメディアというよりは、テレビにはない強烈な個性を持っていると言ったほうがいいでしょう。
活字を手にしていると、たとえ何十万人が同時に同じ本を手にしていようとも、読みながら立ち上がる世界は人それぞれ違うのだ、ということが強烈に感じられるのです。

さて、ここからはネタバレの話が始まるので、未読の方はこのへんで。10ほど数を数えておきます。









10


11

12

13


14

ちょっと数えすぎてしまいましたが。
まあ、このへんで大丈夫でしょうか。。。。。

村上春樹が今回のBook3を書いたのは、牛河という典型的な俗物に「魂を入れる」つまり、「きちんと心を与えてやる」ためだったのではないかと思っています。村上さんの関心は、どんどん「俗」を自分の世界に取り込む方向に向かっているようですが、その流れの一環として。


こんなことを思ったのは、『1Q84』の中で、唐突に「我々」ということばが登場したのがひっかかっていたからです。

小説中の地の文で、唐突にこんなフレーズが入ります。

「ここでいくつかの「もし」が我々の頭に浮かぶ。もしタマルが話をもう少し短く切り上げていたなら・・・(以下略)」
(『1Q84 Book3』 p339より引用)

「我々」?

文脈から見れば、「我々」というのは、作者と読者を指すと思われます。しかし、こんなところで作者が読者によびかけるというのは、かなり唐突で掟破りな手法です。

私は、まず、いくつかの映画を思い出しました。
ゴダールの映画で、「俳優がカメラ目線で観客に語りかける」ものがありましたね。
そのほか、いくつかのギャグ映画や、ドリフターズの『全員集合』でも、よく見たような気がします。
また、『フランケンシュタイン』の映画の冒頭には、作者が登場して、「これは物語なので動揺しないように」と観客に語りかけるシーンがありました。
また、この映画はエリセの『ミツバチのささやき』にも引用されていました。

(後記; 『フランケンシュタイン』では、作者がビロードのような幕(たぶん映画館の暗幕のイメージ)から作者が登場し、ひとしきり語った後幕の中に引っ込み、それから物語が始まる、という段取りを踏んでいるので、映画の始まる前の作者解説に類するといえなくもなく、ぎりぎり物語のフレームは守られているといえます。ここで取り上げる例としてはちょっとふさわしくなかったかな??)

この演出は、スクリーンの内と外の垣根を取っ払ってしまう効果があります。普段は、物語を蚊帳の外で見ている観客に対して、物語のほうから、現実に侵食し始めるわけですから、見る側にはかなりのインパクトです。でも、効果が強すぎるので、一種飛び道具的でキワモノっぽい演出にみえかねない危険をはらんでいます。
村上春樹がここでやっていることは、この活字版です。

しかし、『1Q84』での手法は、地の文の中にさりげなく置かれ、その技法のインパクトを強調することなく、さりげなくフェードアウトし2度と登場しないというのが、とてもフシギです。私には正直かなりの違和感がありました。それならそうと、技法を「立てて」書いてくれれば、狙ってやっているのだと安心できるのですが、この場合、そうではない。「我々」は、さりげなく登場し、その後登場しないのですから。

ふと連想するのは、『アフターダーク』で、用いられた、俯瞰カメラからの視線のような記述ですが、あの時はあざとく、何度も使われていました。つまり、この「あざとくなく」「さりげなく」使われているということ、「我々」に村上春樹が込めた意図を読み解く上での核心のような気がします。


こうして、問題が見えてきました。

村上春樹は、この掟破りの「我々」を、しかも「さりげなく」書いてしまうことで、何を狙ったのでしょう。

今日は時間切れで、牛河の問題までいけませんでした。いずれ続きを書きたいと思います。

直感的には、物語がさりげなく現実に侵食してくる感じ、この感じが大事なのではないでしょうか。「壁と卵」の話での小説家の社会参加とか、村上春樹がアクティブに社会に関わっていこうとする姿勢と、つながっている気はします。

とりあえず、月が3つになってなくてよかったですね。
ではまた。

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2010年1月 3日 (日)

知覚の扉の向こう側~色覚について(4)

年が明けました。
つい昨日かな、村上春樹の『1Q84』、続巻が4月に出るという記事を新聞で読みました。一時は夏と言う説もあったようですが、ずいぶん早まりましたね。
しかし、早まるぶんには大歓迎。
以前、このブログでは「続編は出ない」と予測する記事を書いてしまいましたが、出るとなると待ち遠しくてたまりません。

さて、ずいぶんご無沙汰しておりましたが、仕事関係がいろいろ忙しいのと、ツイッターなどのアウトプットができて、それに時間をとられていたという事情があり、こんな長期の休眠状態になってしまいました。まあ、今後もここで書きたいことが出てきたら書くという姿勢に変わりはありません。どうぞ今後ともよろしくお願いします。


では本題です。


さて、もうかなり前になるけれど、色覚異常が「治る」かもしれないという、驚きの記事を読みました。
全文引用すると著作権的には微妙なのですが、ソースを明かすために大事と思ったのと、しばらくすると聞けてしまう恐れがあると思うので、あえて引用します。
こちらが下記記事のリンク元、そしてこちらが雑誌『ネイチャー』へのリンクです(英語)。

(以下引用)
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色覚障害のサル、遺伝子治療で16色を識別
2009年09月17日 14:11 発信地:パリ/フランス

【9月17日 AFP】色覚障害を持つサル2匹に遺伝子治療を施し、すべての色を識別できる色覚を持たせることに成功したと、米ワシントン大学(University of Washington)などの研究チームが17日の英科学誌「ネイチャー(Nature)」に発表した。ヒトの色覚障害治療への応用が期待されるという。

 赤と緑が区別できない色覚障害は、遺伝情報におけるたった1回の変異で引き起こされると考えられており、男性の5~8%、女性の約1%が色覚障害者といわれる。

 研究チームは、生まれつき色覚障害のある成体のリスザル2匹を、1年以上かけて訓練。タッチスクリーンに表れた色の境界を正しくなぞることができたら、ごほうびのグレープジュースを与える方法で、16色の識別テストに回答できるようにした。

 その上で、赤い光を感知する視物質の遺伝子を風邪ウイルスに組み込み、これをサルに感染させることで、遺伝子を網膜の細胞に取り込ませた。

 この治療から約20週間後、2匹はすべての色を認識できるようになり、この状態は2年以上続いたという。

 色覚障害を持つ霊長類で、網膜のすべての光受容体が完全に回復した例は、今回が初めて。先天性の視覚障害は治癒不能という一般概念も覆されることになった。(c)AFP


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(以上、引用終わり)

というわけで、「風が吹けば桶屋が儲かる」、、、、じゃなくて、「風邪をひいたら色覚異常が治った」という、一見冗談みたいな話なのですが、ネイチャーに掲載されているということは、きちんと科学的な検証を経た上での大発見だと思われます。

うまく人間にまで展開できれば、これは楽しいことになりそうですね。
しかし、色覚が拡張されるというのは、実際にはどういうものなのでしょうか。
上記の実験で言えば、今まで「自分にとっては」同じ色だったはずの赤と緑が、自分に「赤センサー」ができることによって、赤が違った色に感じられるようになるということですね。


ところで、これ、認知系の哲学には、かなりインパクトのある発見なのではないでしょうか。
整理されていませんが、二つのことを思いついたので、メモしておきます。

1)
たとえば、色覚異常の私に、今まで見えていなかった赤色が「見え始める」ということは、「赤」という感覚・経験が、私にとって「取り出せる」、つまり「科学のまな板の上で操作可能なものになる」、ということです。
これは、他者との感覚の違いを縮める、テコになるのではないか。

もちろん、この治療で色覚が拡張されるとしても、他者と自分が同じものを見ているかどうか、確証できないことは同じです。相変わらず、私の思う赤と、あなたの思う赤が、同じという確証は得られないのは変わらないので、個人の感覚がブラックボックスなのは変わりませんけれども。

2)
「我思う、ゆえに我あり」というデカルト的出発点からすると、「我」が「思う」のは無前提な出発点であって、これを誰かに操作されるというのは、あまり喜ばしいことではありません。
ところが、我の思うその方法が、手術とかの外的働きかけで変わってしまうことが示せるとしたら。
この2)についてヒントになりそうなのは、ヒッピームーブメントの頃、LSDなどのドラッグを使って知覚を開放する道を探った一群の学者たちです。
ハクスリーは、LSDで「知覚の扉」を開けとアジテーションしました(ドアーズのバンド名は、この「扉」に由来することは有名な話です)。

感覚を、たとえば薬を使って物理的に変えることで、デカルト的な人間観は全くひっくり返されてしまう気がしています。このことについて、彼ら学者はどう語っているのか、とても興味が出てきました。


なんだかまとまらないけれど、ハクスリー周辺の本など、少し勉強しつつ、感覚の拡張について、もっと深めていけないか、がんばってみます。

アイディアだけなので、たいへん論理を追いにくい文章になってしまいました。
今後はがんばりますが、この話、私の手に負えないのかなあ。

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2009年7月26日 (日)

初恋じゃない。SUMMER NUDE な恋

真心ブラザースの「SUMMER NUDE」にはまって、この夏は何度聞いたことか。

バージョンがいくつかあるようですが、私は上記アルバムの、ホーンが派手な「ENDRESS SUMMER NUDE」が好き。もう、メロディーもアレンジもメロメロに大好き、なのだけど、やはりこの唄の魅力の大きい部分は、強烈な歌詞にあると思います。なにしろ、一行ごとに、次々と視点が変わり、新たな事実がわかっていく、一大スペクタクル。

これは、歌詞を実際に見てみると、そのすごさがよくわかる。
ちょっと見てみましょう。(改行は原詩と異なる部分があります)


「何かたくらんでる顔」
   ~~恋人の顔のアップ。いたずらっぽくてイノセントな感じが魅力の女の子。

「最後の花火が消えた瞬間
浜には二人だけ」
   ~~浜辺のロングショット。二人きりの海辺での花火。一瞬の静けさも感じる。

「だからって」
   ~~切り替え。「僕」は、何か起こる予感を感じる。

「波打ち際に走る
Tシャツのままで泳ぎだす」
   ~~彼女の突然の行動。やはりイノセントな無邪気さ全開。

「5秒に一度だけ照らす
灯台のピンスポットライト」
   ~~視点、再び引く。浜辺を光の帯がよぎる

「小さな肩」
   ~~灯台の明かりに一瞬照らされる恋人の肩(背中)のアップ、かよわさ、のイメージ

「神様にもバレないよ 地球の裏側で」
   ~~これ、かなり謎のフレーズです。
      ただ、二人が会っているのがバレてはまずい背景があることを匂わせる。
      不倫とか、どちらかが二股かけているとか。


「僕ら今 はしゃぎすぎてる夏の子供さ」
   ~~みたび、イノセントなイメージ。

「胸と胸 からまる指」
  ~~イノセントでも、やることはやる。

と、ここまで引っ張ってきて、最後の必殺のフレーズ、

「嘘だろ、誰か思い出すなんてさ」

に至ります。
ここで、今まで全く無垢に見えていた彼女の、昔の恋人の存在が見えてくる。そして、彼女が前の恋から完全には吹っ切れていないことも。この彼女が、とても魅力的に描かれているのもポイント。

この先二人がどうなるのか、二人にも予測がつかない。ただ、相手を好きになる気持ちは、この夜、もう制御できないぐらいに高まってきている。
誰にでもある、恋愛関係が突然高まる一瞬を、短い瞬間の積み重ねで、ピンポイントで捉えているのです。

(映画的手法、とも言えそうだけど、もしもこれが映像で、この音楽のテンポに合わせてどんどんカットバックしていたら、めまぐるしくて見ていられないでしょう。やっぱりこれは、歌詞ならではの表現ですね。余談でした。)

このあと、同じようなアップと全景を繰り返す印象的な手法で、車で海から帰る二人が描かれます。はしゃいでるのは波打ち際のときと一緒だけど、一番の歌詞を念頭に置くと、車の中の二人は微妙に後悔しているようにも感じます。
「こんなに好きになって、もう帰れなくなっちゃったなあ」という感じの。

そして、二人はどこかで「白い朝」を迎えるのですが、その後には、再び必殺のフレーズが。

「僕はただ 
君と二人で通り過ぎる
その全てを見届けよう」

「僕」の、この恋へ溺れてやろうという、覚悟です。
どうなるかわからないけど(いや、むしろ、「見届ける」という言い方からも、ダメになることを覚悟しているのかもしれない)、この恋に賭けてみよう、という刹那を感じるわけです。
刹那い=切ない。


今、ネットでみていたら、7月1日に、このカバーが発売されていたんですね。

nawiiという、知らないアーティスト。

歌詞は、原作をもとに結構改作されたりつけくわえられたりしています。
こちらがその歌詞です。


このカバーバージョンのほうの最後の一行は、

「君とかぶる いつかの SUMMER NUDE」

という一言が加わっていることで、カバーの方の「僕」は、もっとあくどく、同じような恋を輪廻みたいに繰り返しているようですね。たぶん、去年もおととしも同じように、ちょっと他人には言いづらいような恋をして、同じようにダメになってしまったのでしょう。


「真心バージョン」の詩だと、「僕」の恋愛経験は一切語られていないので、「僕」にとっては初恋、というふうにも読めますし、私はそう読んでいました。
純粋なようでいて、意外に恋愛経験のある女の子と、その子に初恋をしてしまった男の子、という関係の方に、どうしても惹かれてしまう。

リアルに「夏の恋」の実態と近いのは、nawiiバージョンのほうかもしれませんが、私はやっぱり真心バージョンをとりたいな。

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2009年6月21日 (日)

双つの乳房と双つの月~『1Q84』の「物語る力」~

村上春樹の分析本の定番として、本に付箋を貼って、日付などが持つ意味を読み解く、というものがあります。
それも読むと面白くて、堪能させてもらっているのですが。

分析本はたくさんあるのですが、例えば『ねじまき鳥の探し方』なんて、面白いです。


でも、そういう読み方とはまた別に、彼の小説には、リニアに、つまり愚直に1ページずつ読み進めることの楽しさにもあふれています。

今日はこの楽しさについて書いてみようと思います、、、、、、、と、書きながら思ったんですが、私は、あまりにも当たり前のことを書こうとしてるのでは??
うーん、その可能性もかなり高いなあ。

まあ、とりあえず、書きすすめてみます。


物語の冒頭、ヒロイン青豆は、自分が今までとは別の世界に来てしまったことに気がつきます。
そこは、武装集団と警察との銃撃戦があり、NHKの集金人は支払いを拒否した大学生を包丁で刺す、ちょっと暴力的な世界でした。

そして、この世界には二つの月が浮かんでいます。
(緑色でゆがんだ月は、緑の月=青豆という連想や、青豆の左右で大きさの違う乳房を連想させます。)
が、これこそ、青豆が別の世界に入り込んでしまった象徴なのです。

読者は、こんなふうに考えるでしょう。
青豆が別の世界に入ってしまった事はわかった。
次に気になるのは、青豆の恋人(となるべき)天吾はどこの世界にいるのだろう、ということだ。

なぜなら、天吾と青豆が同じ世界にいないとなれば、二人の出会いの可能性は大きく下がってしまうからです。
つまり、読者は、天吾には月が二つに見えるのか、ということがものすごく気になってくるのです。


ところが、ここでまた、村上春樹は、私たちをじらします。
小説中の小説、『空気さなぎ』では、「空気さなぎができるとき月は二つになる」(Book1 309)、と描かれています。
ということは、この小説がベストセラーになる世界では、「月は一つだけ」という常識が共有されているのです。

天吾の生きる世界では、みんなは一つの月しか見えていない。
だからといって、天吾には二つ見えている、ということもあるんだろうけど、、、、、その可能性は低くなった(ように見える)。

そして、さらに後半に、青豆が『空気さなぎ』の本を読み始めるに至って、いよいよ読者は、二人の暮らす世界の位置関係はどうなっているんだろう、と幻惑されるしくみになっています。


村上春樹がよく使うテクニックなのですが、
「これってAなのかBなのか、どっちなんだろう」
と読み手が思っていると、突然の一行で、謎が深まったり、明確に解けたりする瞬間が気持ちいのです。


今までのところを少し整理してみます。

物語をアタマから読んでいる過程では、天吾がいる世界は青豆と同じ「1Q84」の世界なのか、かなり先まではっきりしません。
なにしろ、天吾は、大規模な銃撃戦についても、ぼんやりと記憶にある気がする、という程度なのです。
もしかしたら、天吾は1984に留まっているのか、それともさらに別の世界に行ってしまっているのかもしれません。
でも、違う世界であれば、そもそも青豆とは会えません。そんなわけで、天吾がいる世界がどこなのか、は、天吾が月を発見するまでは、物語上の巨大な推進力になっています。


これが判るのは、Book2のp394まで待たなければならない。2冊目も4分の3を越えたあたりで、ようやく天吾は月を見ます。
ここで彼が見るのは、二つの月でした。

「月は相変わらず寡黙だった。しかしもう孤独ではない。」
ここでようやく、緑色の月=青豆と、黄色い月=天吾が、よりそっていることがわかるのです。


引っ張りましたね、ハルキさん。

でも、待っていたがゆえの、じんわりと感動的な瞬間です。
やっぱり二人は同じ世界で求め合っていたのだな、という。


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さて。

この小説の続編があるのか、については、いろいろな意見が言われています。
しかし、私は、続編はないのではないか、という気になってきました。

まずは、この『1Q84』、バッハの平均律クラヴィーアの、2冊各24曲を模した構成になっています。
そして、バッハには"well-tempered clavier, book.3"は存在しません。
もう一冊書くことは、この均衡を破ることになるのです。


そして、続編がないと考えるもう一つの理由は。

小説の本当におわりあたり(Book 2 p498)に、天吾が、空気さなぎのなかの少女に、「青豆」と呼びかける場面があります。
この場面、時間的には青豆が拳銃をくわえた日の夜です。

天吾の呼びかけを、
「青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする」。

私は、この一行で、どんなタフなことがあったにせよ、青豆はこの世界のどこかで生きているんだ、と思いました。

こうして二人のことには決着がついているのだから、もうこの先に続編をつける必要がないのではないか、と思うのです。


さて。
今、気になっているのが、猫の街とは何か、です。
それは、以下の二つのシーンの強い共通性がヒントになっています。

まず、天吾とふかえりが交わる(ふかえり曰く猫の街に行ったことの「おはらい」をする)シーン(Book2 p304)。

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「口は軽く半開きになり、唇がさざ波のように微かに動いているのが見える。それは何かの言葉を形作ろうと中を模索していた。」
(中略)
「テンゴくん」とふかえりは行った。
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そして、青豆が拳銃を口にくわえるシーン(Book2 p473)で、青豆が「天上のお方さま」といつもの祈りを捧げ、そして「天吾くん」と青豆が言う場面。

この二つのシーンの関連について考えてみると、何か見えてくるのでは、という気がしています。


追伸

今、私が見ているNHKのテレビは、夏至のキャンドルナイト特集をやっています。電力を使わないようにするんだったら、そんなテレビ番組を作るのって、かなり、そのスタート地点から矛盾してる。。。。。
でも、このTV、スタジオが生で展開している(=同じ時間を共有している)という事実が、妙に私を惹きつけるのです。

村上春樹の本も、矛盾している事で有名(?)ですが、、、、、

まあ、いいんですよ、矛盾していても。

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2009年6月10日 (水)

発射されない拳銃 ~異形のメタ小説『1Q84』~

村上春樹の『海辺のカフカ』には、超能力を持つ老人「ナカタさん」が、ヒルや魚の雨を降らせるシーンが登場します。
昨日、まさにそのシーンを読んでいたのですが、今日は新聞でこんな記事を読みました。


asahi.comより「空からオタマジャクシが降ってきた? 石川県で相次ぐ

空から魚が降ってくることは時々は起こることのようですが、(Google検索”空から魚が”)、それにしてもねえ。

記事を読んだとき、現実とフィクションの境目が少しばかり薄くなった気がして、頭がクラクラしました。
。。。。。。。。
どうやら、世界は日増しにハルキ化しているようです。

(「ハルキ化」とは、「明らかに何かの象徴らしい不思議な事が起こるが、それが何を象徴しているのは明かされないこと、その度合いが強まること」ということにしときましょう。)

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前回、前々回と『1Q84』について書いたあと、頭の中で寝かせている間に、なんとなく解ってきたことがあります。


「解決しない謎が頻発する」というのは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』あたりから顕著になってきた特徴です。
そして、最近になるほど、村上春樹は確信犯的に、「解決しない謎」を振りまくようになっているような気がします。

これ、「登場した拳銃は発射されなければいけない」という従来のドラマツルギーに照らしていえば、かなり異様なことです。
でも、それに対しての村上春樹の回答は、「拳銃は発射されないこともある、その方がドラマチックなら」、でした。

そして、読者も、たくさんの発射されない拳銃を見ながらも(そして時々は文句をいいながらも)、きっちり村上春樹についていっているわけで、ということは、村上は、新しい小説のスタイル、というかコンセプトというか、を確立させはじめているのでしょう。

では、どんな拳銃は発射され、どんな拳銃は発射されないのでしょうか?これが私にはわかりません。
でも、村上春樹は、確かに二種類の拳銃を使い分けて物語を進めているようです。

これって、前衛的な絵を見る時に、「作者はなぜここで完成だと思ったんだろう」と思うのと似ています。
もっと塗り重ねてもいいし、逆に、キャンパスが白地のまま残っていてもよかった。でも、作者は、どこかの時点で、「ここで完成」と線を引いている。
でも、その「完成した」という確信は、どこからなぜ生まれてくるんだろうか。


さらにいえば、続編の『book3』が出るか出ないか判断できないのは、村上春樹の小説の、この特異性によるものです。
『book 2』で終わってもアリ、終わらなくてもアリ、ということを、私たち読者は既に『ねじまき鳥クロニクル』を通過して学んでしまっていますからね。


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さて。

以前、村上春樹は、自分の小説に「解決しない謎が多すぎる」ことについて、こう答えています。
「僕ら小説家の仕事はうまい回答を出すことよりは、むしろ優れた設問を提出する事にあります。」
(読者とのメール書簡集『少年カフカ』p52より)

さらに、『1Q84』の中でも、村上小説を読む上での「ゲームの規則」についてくりかえし書いています。
それは、「疑問の答えを探す事は重要ではない。疑問を疑問のままで抱えながら、考え続ける力を持つことが大切だ」、というものです。
(すいません、本文から引用したかったのですが探し切れない、、、)


ここまで考えて、『1Q84』とは、村上春樹が「小説を書くこと/読むこと」の意味を考えつつ、その考える過程自体を小説に取り込んだ、究極の「メタ小説」(小説についての小説)ではないかと思いました。

村上春樹は、

なぜ自分が書く小説には謎が頻発するのだろう。
なぜ、自分は沢山の謎を未解決のまま積み残している小説が「完結した」と思えるのだろう。

、、、そんな疑問を、読者と同じ立ち位置で悩みながら、新たな作品を紡いでいるように見えるのです。

『1Q84』は「優れた設問」に満ち満ちているので、今のところ消化不良になっていますが、逆に言えばこれこそ再読する条件。
時間をおいて、ゆっくりと何度も読んでいく楽しみと、意味があると思います。

追伸

「登場した拳銃は発射されなくてもいい」。
となると、、、、思い出すのはラストシーンの拳銃。

登場の場面から、熱烈な枝豆青豆ファンになってしまったので
(ならない人がいるだろうか?)いよいよ続編に期待が高まります。


さらに追伸

パシヴァ(知覚するもの)と、レシヴァ(受け入れるもの)の関係は、翻訳においての作者と翻訳者を思わせます。
つまり、この小説には、翻訳者・村上春樹の翻訳感も描かれているのだと思います。
このへんも「『1Q84』はメタ小説である」という考えが浮かんだ所以ですが、これは上記の話とはあまりにも筋が違うので、またいつか。


最後に、「参考」。

asahi.comの記事「空からオタマジャクシが降ってきた? 石川県で相次ぐ」より

----(以下引用)------

空からオタマジャクシが降ってきた? 石川県で相次ぐ

2009年6月9日12時0分

 空からたくさんのオタマジャクシが降ってくる「珍事」が今月に入って石川県内で相次いでいる。竜巻に巻き上げられた魚などが地上に落ちてくる現象は知られているが、当時は竜巻が発生しやすい状況ではなかった。鳥が運んだ可能性も低そうで、原因はわかっていない。

 最初に確認されたのは4日午後4時半ごろ。七尾市中島町の市中島市民センターによると、センターの駐車場にいた男性職員が「ボタッ、ボタッ」という鈍い音を聞いた。振り返ると、車の上や地面に体長2~3センチのオタマジャクシが大量に落ちていた。

 センター内にいた同市職員の舟倉究(きわむ)さん(36)が見に行くと、自分の車の天井やガラスなどにオタマジャクシ約10匹がへばりつき、周囲で100匹ほどが死んでいた。高いところからオタマジャクシをばらまけるような場所は辺りになく、「空から落ちてきたとしか思えない」。8日午前8時ごろには、センターの西約4キロにある七尾市議宅の玄関付近にもオタマジャクシ5匹が落ちていたという。

 七尾市中島町から約80キロ離れた白山市徳丸町。石川信子さん(75)は6日午前7時半ごろ、「オタマジャクシが落ちている」と近所の人が話すのを聞いて外に出た。長女(47)の車のボンネットの上で体長約3センチの5~6匹がつぶれ、周囲にも30匹前後が落ちていた。「この地に40年近く住んでいるが初めてのこと」と不思議そうに話した。

 金沢地方気象台によると、オタマジャクシが見つかった日時場所の大気状態は安定し、竜巻が起こる条件ではなかったという。いしかわ動物園(能美市)によると、サギやカモなどがオタマジャクシを食べることはあるが、「100匹以上を一斉に同じ場所に落とすとは考えられない」という。

----(引用おわり)------

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2009年6月 6日 (土)

ジャムってる。~『1Q84』を読了して~(ネタバレあり)

"jam"という言葉。
ジャズなんかでは、即興演奏を一緒にすることですが、「群がる」、とか、「ギュウギュウづめになる」、という意味もあります。
コピー機の中に紙が詰まって、出てこない状態も、「ジャムる」って言いますね。

「頭の中がジャムってる。」
まさに、今の私の気分にぴったりです。
言いたいことは沢山ある「ような気がする」んだけど、未整理で、言葉にならない感じ。
(でも、言葉にならないということはまだ掴んでない、わかってない、んだよな。)


さて、先日本を買う前に、いつもの喫茶店に行って、マスターに村上春樹の新作が出たという話をしました。
そういうこともあって、昨日また喫茶店に行ったとき、「どうでしたか?」と聞かれました。
うーん、と困って、「読み始めたら止まらなくなりますよ。でも、かなり挑発的な小説かもしれません」と、わかったようなわからないようなことを答えてお茶を濁してしまいました。

そんな濁った頭を抱えたまま、まだ読み返す気にもなれずに、机の上に寝かせています。

そうしていると、心のどこかで引っかかっていたけど、読んだときには自分でもそれと気がつかなかったことが、ふっと頭をもたげてきます。
まだ断片なのですが、それをちょっと言葉にしてみようかと、思い立ちました。


「天吾」という名前のこと。

"yo la tengo"ヨ・ラ・テンゴというバンドがあります。

静かなる前衛、という感じで、ゆがんだ轟音ギターに美しいメロディ。
小さな音で聞くと、とても沁みます。
表面は静かな河だけど、その川底は深くてひんやりしていて、見えない深みではずいぶん多くの水が流れている、そんなバンド。
これとテンゴの名前は、関係あるのだろうか。

もう一つ、天吾くんがらみですが、なぜ村上作品に登場する性描写って、男性がいつも受身なのだろう、と思います。
シャーマン的な一面を持った女性に導かれて関係を持ってしまうことがとても多い。
今回は、その受身度がたぶん5割ぐらいは増していて、(理由はわからないけど)体がしびれて動かないという状態でのセックスという。。。。なんだか言い訳じみていて、ちょっと引っかかる、というか、あんまり好きになれないシーンでした。
なぜ、こんなふうに、自分の意思でなく関係を結んだことが強調されるんだろう。


最後にもう一つ気になったのが、「損なわれる」という言葉の使い方です。

今までの村上春樹の小説でも、「損なう」「損なわれる」という言い方は出てきました。特に、『ねじまき鳥クロニクル』での使い方は、とても印象に残るものでした。
「傷つく」とか「気がふれる」とか、そういう他の表現には回収できない、なにかとても特別で悲劇的で、不安定な状態を「損なう」という言葉で表していたように思います。

『1Q84』でも天悟の恋人の夫からの電話で、恋人が「損なわれた」ことを告げられます。
でも、ここで感じるのは、今までの不吉な得体も知れない状況ではなく、、、、、なんて表現すればいいんだろう、絶対的で安定した状態のように感じるのです。
なぜこう思ったのだろう。でも、前のブログで書いた、混沌が「わかりやすい混沌」になってきている、という印象の原因の一つは、たぶんこれです。

さて、
『1Q84』、売切れが続出したりして、またニュースネタになっているようです。
情報を全く出さないという販売戦略が当たった、というのはそうなのでしょうが、これだけたくさんの人が村上春樹を求めたというのは、何か深いところで村上春樹が描くものが、深いところでゆっくり共有されてきた、地殻変動の証みたいなものなのかも、とぼんやりと思っています。

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«「喧嘩上等」 by 村上春樹 ~『1Q84』の挑発~