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2006年6月

2006年6月13日 (火)

マルクス主義!

最近なにかとお騒がせの500円DVD。
「マルクス一番乗り」という映画を買ってきました。

全編どたばたギャグ、中に突然歌や踊りのシーンがあるという不思議な構成です。
正直、歌や踊り部分はちょっとかったるいですが、まあ、全編飽きさせずに最後まで引っ張っていってくれました。

「アイスクリーム屋の競馬予想」のギャグは大好きなシーンです。
これ、、多分舞台で何度もやったであろう練りこまれたギャグを、無理やりストーリーに突っ込んだものみたいですが、そういう無理無理な感じも愛らしいです。

でも、一番の驚きは、このアルバムの「あの曲」が登場したときです。

伝説的トランペッター、クリフォード・ブラウンが弾けまくるこのアルバムで大好きだった曲「神の子はみな踊る」は、この映画「マルクス一番乗り」がオリジナル演奏なのです。(さっきネットで調べた。)

ブラウンの演奏も好きでしたが、この映画を見てますます好きになってしまいました。

小さな笛を持った小男の笛につられて黒人たちが歌い踊りながらの大行進!そして最後はダンスパーティー!!という、異常にアッパーな傑作シーンです。
今日も見返しましたが、ものすごく見ていて高揚してしまう。
登場人物の表情も突き抜けているし、なにより、踊りの躍動感がずば抜けているんです。ダンスに詳しい人だったら、もっとこのへんは語りこめるんでしょうけど。


こちらは、特典もりだくさんのワーナー版。これも買っちゃおうかな。

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「ブレードランナー」の微積分

昨日、たまたま図書館で「『ブレードランナー』論序説」を借りて一気読みしました。

もともと、ブレードランナーは大好きな映画でした。
回数だけで言うと、今までいちばん繰り返してみた映画です。映画館で6回ぐらい、ビデオも合わせると20回ぐらい、見ています。

何がそんなに好きかと自問すれば、ストーリーとか登場人物ではなく、街の描写、全体のトーン、、、言いかえれば、世界観です。

全く希望も夢も感じられない未来の都市。
酸性雨に覆われた犯罪都市。
コンクリートも酸性雨にやられて、崩れてきそうなビルディング。
全てのものが煙や霧のかなたにおぼろげに見えるライティング。
こういうのが、生理的にすきなんです。

(これ、もしかしたら、「廃墟好き」の感覚と同じなのかもしれませんが。
私は、廃墟や、九龍城の写真集も大好きです。)


さて、肝心の『序説』ですが、「ブレードランナー」のストーリーを15のシークエンスに分けて、さらにその中のカットごとの意味を読み解きながら、映画史・映画理論・キリスト教図像学・・・・・などなど、あらゆる角度から読み解くという本。
「映画で大切なことは全てブレードランナーに学べる」的なトンデモ偏執本です(イイ意味で)。

編集手法からハリウッド映画の編集技法へ話が広がるような「積分」的分析もあれば、映画のワンカットに映っている看板を詳細に分析する「微分」的分析もあります。

それだけの読みを許容するほどの深い闇が映画「ブレードランナー」にはあるということなのでしょう。

「積分」分析で言えば、「ハリウッド映画の栄光はロシアで迫害されたユダヤ人が築いた」、というトリビア。カットバックの技法、フィルムノワールの定義、「フランケンシュタイン」以来の人造人間映画の系譜、とか、、、、。
よくも、たった一本の映画のワンシーン、ワンカットからこんなに話が広げられるものだと感心するぐらい、次から次へと話が広がっていきます。


その一方で、細部へのこだわりも尋常ではありません。
ビデオやDVDで各シーンを止めたり、スローにしたりしながら書いているのでしょう。たびたび登場する「強力わかもと」という強壮薬のCMから、「わかもと」~「若さの源」~「生命への執着」を読み取るとか、一瞬映る「万年筆」のネオンから、これも永遠の命へのあこがれを読み解きます。

こうした、「微積分的手法」が最も鮮やかに決まっているのが、ブレードランナーは「目玉/視線」へ徹底的にこだわった映画だ、という分析です。

確かに、映画の中では目玉がよく登場していました。
オープニングシーンに登場する、都市を見つめる巨大な瞳。
刑事・デッカードを殺そうとするレプリカントは、目を潰そうと襲い掛かる。
脇役として登場する、「目玉作り専門」の中国系遺伝子工学者。
「俺の目が見てきたものをお前にも見せてやりたい」というレプリカントのセリフ。

こうした細部から、著者は映画に込められた「視線へのこだわり」を読み解き、最後に、この映画はレプリカント(=人造人間)という人間未満の存在が、人間より人間らしく成長するまでの物語だと結論付けるのです。


なにげなく見過ごしている小さなサインを組み合わせて、その奥に秘められた大きな物語を読み解くというのは、探偵小説的、ともいえるし、精神分析的でもあります。


ただし、この本で分析されているもろもろの事例は、「無意識」に映画に混入したものではありません。

シナリオから、セット設計、照明、音響効果、俳優まで、現場の様々なプロフェッショナルが、「観客が気づいてくれなくてもいいけど、ここはこだわろう」と、がんばった努力を、きちんと読み解いているということです。


だから余計、こんな細部にまでエネルギーを注げるハリウッドの過剰さというものが、恐ろしくも魅力的に見えてくるという本なのです。

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2006年6月 6日 (火)

深淵のルンバ

しばらく更新をサボっていました。
実は、先週2週間ほど18時間労働、時々徹夜、という状況が続いていて、更新どころではなかったのです。
無理無理にでも更新することに意義がある、とも考えたのですが、体が追いつかないのと、自分が面白がってないネタで更新してもなあ、というのと、本当に音楽を聞く精神的余裕がなかったのと、などなどと理由をつけて結局サボっていました。

まあ、これからも忙しいことはあると思うので、そういうときは休み休み、更新していきます。


さてさて。


そういう忙しい日々が明けた先週土曜、今度は扁桃腺を腫らして、あと、唇に吹き出物もできて、なんかへこんでいたときに、久しぶりに引っ張り出して聞いた音楽がこれでした。

ニューヨーク前衛サルサ(?)の雄、キップ・ハンラハンがディレクションした”ディープ・ルンバ”です。

かなり前、ここでちょっと触れた、サルサ大好きのバーのマスター曰く、「マフィアに借りたやばい金を元手に、ミュージシャンがやりたい、でも売れないサルサをやった人」。

確かに、キップはサルサの世界の学究肌、かつ前衛なので、聞いていても踊りたくなるような楽しさはないけど、リズムに溺れることの冥い悦びに満ち満ちています。
全編、パーカッションの嵐。中ジャケでは、5人のパーカッション奏者に囲まれた2人のヴォーカルが打楽器とボーカルがステージに立っていますが、本当にパーカッションとヴォーカルが主人公のアルバムだと言ってもいいでしょう。ギターやピアノなどの和声楽器はほとんど聞こえません。
歌とタイコは、よりそうのではなく、むしろ戦って主役を競りながら、曲を壊すぎりぎりのところで、作品として成立させています。

例えば、2曲目の”medley: Robby and Negro Opening Time/Pensamiento”。
メドレーの前半はパーカッションのみの饗宴。そして後半、「ペンサミエント(想い)」はヴォーカルが入るのですが、これが変な曲なのです。
パーカッションはテンポを落とさず、激しいリズムで叩き続けるのですが、それとは一見なんの関わりもないリズム(のように聞こえるんです、これが)で、バイオリンとヴォーカルが、ゆったりと恋の歌を歌い上げます。
これ、一応結構聞き込んだつもりなのですが、どういう構造でリズムと歌が合っているのか、今ひとつわかりません。全く違う二つの曲を同時に流しているような、そんな感じです。

このアルバム、年に一度ぐらい、無性に聞きたくなる時があります。

紹介したアルバムの曲は、多分ほとんどがライブ収録。曲によっては、ボーカルがキメを間違えたのをそのままOKにしているものもありますが(Quimbara 2000)、その熱気は凄いです。


でも、こんな聞き疲れしそうな曲を、よくあんなへろへろで心地よく聴けたなあ、と自分に感心。


で、今もまだ、唇のできものがなおらないんですよ。と、つげオチ。

すいません、最後意味不明で。(つげ義春「李さん一家」参照)

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