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2008年2月

2008年2月 2日 (土)

銀幕をはさんで。

昨年10月のこと。
掃除していたら、箱が出てきました。
夢や、思いつきの断片がいろいろ書いてあるノートとか入った箱。
たとえばこういうのです。

「カラムーチョ+蒸し鶏でサンドイッチ。きっと美味」

なんて書いてあるすぐ下に、

「まずわしは『時よあれ』と言った。すると時が流れ始めた。
神が現れて『光あれ』と言った。すると世界が光り始めた。
それ以来、わしは年老うことなく、神は盲目のままだ。」
とか書いてある。

何かの引用でもなさそうだし、たぶんこういう夢を見たんですね。
、、、、、全然覚えていない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。


さて、前回、デヴィッド・ボウイの"Life on Mars?" の訳を全く注釈なしでアップしました。
もう3ヶ月も前のこと。これも、掃除で発見した「パンドラの箱」に入っていたものです。
そもそも、その時期は自分の昔を一度振り返って整理したいと思っていた時期でした。掃除も、無意識にあの箱を探すためにやったような気もします。とにかく、箱を見たとたんに、「あのノート」が入っている、って分かりました。

そこに、"Life on Mars?" の訳もありました。ブログ掲載に当たって言い回しはかなり直しましたが、年月を経ても、自分が好きな部分はそのままでした。


主人公は灰色の髪の女の子。
映画が好きで、お父さんお母さんに叱られながらも、一人で映画館に行lきます。そこでは、おなじみのB級映画が上映されています。
水兵達がダンスホールでけんかしたり、原始人がぞろぞろ歩いたりする、退屈な映画。
俳優たちは、「俺を見てくれ」「俺に夢中になってくれ」と大根芝居をくりかえす。
そういうマンネリ映画に、彼女は怒ってもいいはずです。でも、彼女は銀幕を見つめ続けている。

ここで、歌は、映画の脚本家の視点にスイッチします。

脚本家も、毎回自分の才能の限界を思い知りながら仕事をしている。「マンネリだよなあ。」
それでも脚本家はシナリオを書き続ける。そして、これからも書かれるでしょう。なぜなら、彼女に見つめてもらいたいから。

つまり、この歌は、作家と観客の間の、銀幕を挟んだ、まわりくどいけと確かな結びつきを歌っていると思うのです。


女の子にとっては、映画が退屈だなんてことはたいした問題ではないのかもしれない。それより、暗闇でスクリーンに向かいあうという行為自体が大切なのでしょう。自分の住む世界とは別の世界を、少しの間訪れること。世界をスイッチすること。もう一つの世界に生きるという恍惚。

脚本家の仕事というのは、その女の子たちのために、もう一つの世界を作ることです。彼自身も「またくだらない、似たようなホンにしかならなかった」と思ってもいるけれども、そうして自分が作った世界を求めている人がいることも知っている。
それはたぶん、彼自身も、ねずみ色の髪の女の子と同じように、スクリーンを見つめることの恍惚を知っているからなのだと思います。


デビッド・ボウイは、観客と歌手の関係性にとても過敏な歌手でした。そして、この次のアルバム「ジギー・スターダスト」以降は、「役を演じながら」様々なアルバムを制作していきます(そして、そのプレッシャーで大変な思いをすることになります)。
そんなことからも、この歌はシンガーソングライターである自分と、アルバムを買ってくれる観客との関係を歌にしたというふうに読むことができるでしょう。


さて、この訳を上げるにあたり、ネットでいろいろ探してみたのですが、この詞の解釈が皆さん違って、とても面白かった。

例えば、歌の冒頭、

「ねずみ色の神の女の子にとって
それはほんとうにささいなことだった」

という一節の、「それ」とは何か。

私は、「映画にいくこと」として訳しました。
なので、私の解釈では、ここは、両親に「友達と一緒に映画に行きたいんだけど」と言った女の子が、「だめだ!」と怒鳴られるという場面です。

ところが、「デモや政治集会に行くこと」という読みかたがあるんです。
そうすると、ここは「デモに行きたい」と言った女の子が、お母さんに叱られて家をでる。しかし、友達もいなかったので、デモの代わりに映画に行く、というシーンになるわけです。
この筋で読むと、学生たちの平和運動、反戦運動などをイメージさせ、すごく時代の気分を感じます。ちなみにアルバムの発表は’71年。
なるほど。


最後に、訳でわからなかった部分もろもろを注釈、というか言い訳しておきます。

ミッキーマウスが出てくるあたりから2連は、むちゃくちゃ難しい。文脈的には、後半に登場するシナリオライターが書いた映画の中の世界がどんなところか描写しています。
全体として、映画『未来世紀ブラジル』を思わせる超管理社会を描いているように読めます。
でも、イギリス人で、世代的にはボウイと同じという知り合いにいろいろ聞いてみたのですが、彼もやっぱりわからないといっていましたね、、、、。

ミッキーマウスがcow(牛?売女?)になってアメリカが眉をひそめる、という部分は、アメリカ的精神、つまりマッチョで単細胞なフロンティアスピリットの行き詰まりをうたっているのかも。

これに続くのが「レノンがまた売りに出され、労働者は名声のために戦う」というくだり。
ジョン・レノンはこのころ「ワーキング・クラス・ヒーロー」という歌で、「労働者階級がヒーローになるには人殺しでもするしかない」(超意訳ですが)と時代の閉塞感を歌っていました。だから、これはかたやイギリスも荒廃しているという描写でしょう。

そして、イビザ(イビサ)とノーフォークですが、、、。
イビザはスペインの「ヒッピーの聖地」。今もクラブイベントで有名だったりしますが、若者向けの開放感ある土地柄です。一方ノーフォークは美しい湖沼地帯が売り物の「クラス感」のある場所。イビザからノーフォークへネズミの大群が移動するというのは、ヒッピームブメントの終焉を象徴しているようです。

そして、この連の最後は、『ルール・ブリタニア』というイギリス人なら誰でも知っているという愛国歌が禁じられる状況をうたいます。これは、世界を征服せよ、イギリスの民!!という勇ましい歌。サビは、「ブリテンの民は決して奴隷にはならない」と繰り返す歌なので、これも、人々が奴隷となることを受け入れてしまった時代の閉塞感なのかも、、、、。
ってなわけで、『未来世紀ブラジル』を連想したのです。あれも、イギリス人の『モンティパイソン』チームの人が作った、超管理社会の映画でしたね。(もちろん、映画ができたのはこの歌のずいぶんあとですよ。)


そういえば、世界のどこかで戦争が起こるたび、「イマジン」が流れ、そして放送禁止になる。
「無能な脚本家が書いた荒唐無稽なお話」が、現実となぜかリンクしている気がするのです。

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