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2008年10月

2008年10月 7日 (火)

色覚について2

前回、小学校の色覚検査で、他の子供たちには数字が見えるのに、自分には見えないという経験を書きました。

そのとき、そばで見ていた親切な子が、「もっと目を近づけてごらん」、と言ってくれました。ところが、いくら目を近づけても、やっぱり何も見えてきません。

・・・・・
狐につままれたような思いでした。他の人に見えるものが、自分には見えないことの驚き。

そして、さらに驚いた事に、Aくんにこの色覚検査表がどう見えているのか、私が知る方法は、、、、ないんです。

彼の頭の中に入れれば別ですが、外から見ている限りは、不可能。
せいぜい、「彼はこの絵がXという字に見えるっていうんだから、彼にはそう見えているんだろうな」と、想像することができるだけです。

それだけではありません。
驚いたことには、色覚異常の人にしか読めない表、というのも存在するのです。

これも、小学校の保健室で、級友がどよめいたできごとでした。彼らにとっても「自分たちに見えないものが見える奴」という少数派の存在が、わかりやすく体験できたというわけです。

色の判別能力が劣っていると単純に言えない。でも、一般とは明らかに「違っている」。そしてその違いは、(理解することはできるけれども)「実感するすべが無い」。
これが「色覚異常」の面白いところです。

ちなみに、「視力」でも、Aさんに見えているものが自分には見えないことはあります。でも、この場合は、目を近づければ、その字は何だったのか、確認できます。
つまり、この場合は、「条件さえ整えば(メガネをかけるとか、近づくとかすれば)、Aさんも私も同じものが見える」、という前提があるんですね。
翻って、色覚は、そういう生活の実感から考えると、かなり薄気味悪いものといえるでしょう。


この「視力」と「色覚」の違い、とても哲学的な問いを含んでいるようです。

「視力」は、二人の人間が同じ世界にいることが前提で成り立つ世界です。二人は、時々は見え方が違ったりもするけれども、最終的には同じ認識に至る、という確信があるわけです。
この「視力」的な世界観は、日常生活で漠然と感じている世界観ととてもフィットします。
「私たちは同じ世界の中にいて、基本的には同じものを見ている。時々は認識が食い違うこともあるけれども、そのズレをお互いに話し合って溝を埋めていけば、最後には同じ認識に至ることができる」、というわけです。


では、一方、「色覚」的な世界観はというと。

二人が見ているものは、違うかもしれない。その違いについて話し合うことはできるし、想像することもできる。でも、相手にこの世界がどう見えているかは、決して「実感」することができない。

なんて孤独!

私にとって、この色覚検査の経験は、大げさに言えば認識論的転換でした。つきつめて考えると、自分が異星人になったように感じられて、足元が崩れてくるような怖さを味わってもおかしくなかったのですが、、、、、、
幸い子供すぎたのですぐに忘れてしまったようです。

「同じものを見ても、他の人と自分では見えているものが違う。」「相手との認識の溝がどうしても埋まらない。」

でもこれ、振り返ってみると、日常生活で、しょっちゅうはおこらないければども、時々は経験する感覚です。
もちろん、しょっちゅう起こるわけではない。でも、交渉ごとや恋愛や、、、、、とにかく、相手をつきつめて理解しなければいけない場面で、しかもそれが大切な場であればあるだけ、発生しやすいようです。
一度ボタンを掛け違うとこのドツボにはまりやすいんですよね、これが。

でも、「相手のことがわからない」、という前提に立ったら、信頼関係も、恋愛関係も成立しません。

えー、区切りが悪いのですが、もう少し書きたいので、この項、また「続く」にします。

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