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2008年11月

2008年11月24日 (月)

そら目アワー

マリア・ヒタ、いいですね。けっこうはまってます。
Maria Rita "Samba Meu"

でも、このジャケット、ついこれを連想してしまうのです。左側の男(ピート)をよく見てください。
The Who "Sell Out"

ちなみに、マリアさんは踊っているんですが、フーの方は、消臭剤を脇にあてているという図。


マリア・ヒタとザ・フーがつながってしまったのが面白かったので、ほかに自分の中でつながっているジャケットがないか考えてみました。

スーパーグラス" I should coco"


"Le Trio Camara"Le trio Camara

とか、、、、。これは、あんまり似てませんでしたね。


そして、モットザフープルMOTT


グールドの「平均率クラビーア第二集」(バッハ)

。。。。
これは、デザイナーが意識している可能性もありますね。


そして、よく見ると似ていないけど、脳内変換されて自分にとっては似ていることになっているものもあります。
Creedence Clear warter Revival "Bayou Country"

と、
"The Fat of the Land" Prodigy

この2つは、スローシャッターでズームインするという撮りかたが共通しているだけですが、なんか、私の頭の中ではつながっているんです。

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2008年11月16日 (日)

ぞうをなでる(色覚について 3)

Elephant


群盲象を撫ず(群盲象を評す)ということわざがあります。
目の見えない人が、象のしっぽを触って「ほうきみたい」、キバを触って「石みたいだ」と言いあっても、全体は見えない、という意味です。

このことわざ、私は傲慢で嫌いです。
これを口にする人は、自分以外は誰一人全体を見ていない、自分だけが全体を見渡せている、という確信があるはずですね。他のメンバーとは1次元上の、「超越的」な立場にいる自信。根拠なしの。

まあそれはさておき。
実際みんなで象をさわる事態を想像すると、おそらく、「象ってのは石だ。ほうきじゃない」と言い張る人はあまりいないでしょう。「石だ」という人と「ほうきだ」という人がいれば、「象ってのは、石のところと、ほうきのところとあるんだ」と考えるのではないでしょうか。
さらに、象のお腹を触った人が「タイコみたいだ」と言えば、「石、ほうき、たいこ、みたいなところが合わさったものなんだ」と思うでしょう。世界の全てを見ている人はいないわけですし、大概の社会生活(&学問)は、こうしてみんなの認識をパッチワークすることでできています。

さて、もうさんざん繰り返してきた話ですが、ここには、同じ物を触れば同じ感覚を得る、という前提があります。
ぐるぐると遠回りしていますが、色覚の話に戻れば、、、、
色覚の特殊(で不気味)なところは、社会生活を成立させている感覚、つまり、「私と他人は同じ世界に生きていて、同じ物を見れば同じように見える」という感覚が否定されるからです。
そして、そういう共有感覚があることは、あまりにも日常生活の深い深い土台なので、そこを否定されると、あらゆる日常生活の土台が崩される気がする。
先ほどからの象の比喩で言えば、Aさんがホウキだと言ったものにBさんがさわるとタイコと感じる、という状態です。共有感覚を否定されると、じゃあ、今俺たちの前にあるこの巨大なカタマリは何なんだ、という話になってしまうわけです。

もうひとつ、別の例を挙げます。
デートで、二人が同じ映画を見て、二人とも感動して涙を流したとします。最初はお互いに、「同じ事に感動したんだ、気が合うなあ」と喜びます。
でも、後でゆっくり話してみると、なにやらおかしい。話をしてみると、涙を流した理由が、二人で全く違う事がわかりました。私は映画の親子関係に自分の経験をなぞらえて感動していたのに、相手は自分の田舎の風景を思い出して泣いていた!気が合うなんて、全然誤解だったじゃん!!

そして、その夜、ふと気になります。「今日見た映画は、二人、全然違うところで感動していたんだなあ。でも、そういえば、先週も二人で映画を見て、二人で感動したんだけど、あれも、もしかして同じ誤解なのかな?そうすると、先々週見た映画は、、、、???」
恋愛では、相手と自分の共通点が見つかるととても嬉しいし、それが相手を好きになる大きな理由にもなるのですが、、、、、実際相手がどう感じているのか。それをいちいち確かめるのは不可能です。ほんとに自分と相手はセンスが似ているんだろうか。そもそも、自分は相手のことがホントに判っているんだろうか。

この疑いは、どこまでも増殖します。これに取り付かれると、しまいには二人の出会いにまで遡って、「私はあの人が大好きだと思っていたけど、もしかしたら、それって全て誤解なのかもしれない」という、恐い考えにたどり着いてしまいます。
そして、恐ろしい事に、それは論理的には正しいのです。私は、あの人のことをわかり得ないということ。ここまでたどり着いてしまうと、もう、次のデートが恐くなってしまいます。
昨日までは相手の気持ちがしっかりわかっている気がしていたのに、、、、、。

相手の頭の中には入れないのは自明なことです。相手のことが100%わかるなんて、ありえないことです。(まあ、そういうありえないことを望んでしまうのが恋愛ですが。)


でも、ここから話は逆説めきますが。
、、、、だからといって同じ感動を共有できた(と思った)喜びを否定するのは、おかしな事だと思うのです。

100%わかりあう状態なんてありえないのだけれども、でもその悪条件の中で相手にしっかり向き合って、自分なりに相手が理解できたと思った実感は、最も100%に近いこと、最も確かな事なのです。
何より、相手をわかりたいと思った自分の気持ちが真っ直ぐなのであれば、その時の喜びを否定するのはばかげています。それ以上確かな喜びはこの世に存在しないからです。

他者への命がけのジャンプ。
自分の感覚にみみをすまして、(もしかしたら誤解かもしれないけれども、)自分にとってこれ以上確かなものはないから、信じてみよう、という勇気を持って、自分の感覚に賭けて相手と向き合うこと。

ようやく色覚の話に戻りますが、私は、自分の色覚についても似たようなことを考えています。
自分はどうやら、みんなとは違うふうに見えているようだけど、だからこそ、時々みんなと同じものに感動できる(できているらしい)ことは奇跡に近い事で、そういうことが起こること自体が感動的なことなんだ、と。


ちょっといつもと違うタッチになってしまったようです。
何度も書き直したりして、えらく時間がかかってしまったのですが、とりあえずこれを上げないと次へ勧めないなあ、と感じていたので、無理矢理にとりあえず終わらせました。またいつか、上手く書ければアタックしたいですが、とりあえず、次回からはもう少し軽い話をめざそうかな。

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2008年11月13日 (木)

Remember YMO

おととい、ゆめうつつの中でNHKのラジオを聞いていたら、アノニマスというバンドと出会いました。

番組自体はライブだったのですが、さっきウエブでアルバムを探したら、ラジオで演奏した曲とかなり被っているスタジオ盤を発見しました。(まだ買っていないのですが)

選曲は、YMOの渋いのばっかり。
「インソムニア」とか、「ハッピーエンド」とか、ほんと重箱の隅、という感じですが、これがいいのです。(でも、好きな曲ばっかり。)

質のよいアレンジのおかげで、「この曲ってこんなにいい曲だっけ」と気づかされること多数でした。
特に、YMOは、友人の影響か、メジャーな曲よりはこのアルバムに入っているような比較的マイナーな曲を好んで聞いていたので、とりわけこころにしみたのだと思います。

特に、YMOの曲はかなり聞き込んでいる、という人にはおすすめのアルバムです。

・・・なんか、ものすごく普通の投稿になってしまいました。


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