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2009年6月

2009年6月21日 (日)

双つの乳房と双つの月~『1Q84』の「物語る力」~

村上春樹の分析本の定番として、本に付箋を貼って、日付などが持つ意味を読み解く、というものがあります。
それも読むと面白くて、堪能させてもらっているのですが。

分析本はたくさんあるのですが、例えば『ねじまき鳥の探し方』なんて、面白いです。


でも、そういう読み方とはまた別に、彼の小説には、リニアに、つまり愚直に1ページずつ読み進めることの楽しさにもあふれています。

今日はこの楽しさについて書いてみようと思います、、、、、、、と、書きながら思ったんですが、私は、あまりにも当たり前のことを書こうとしてるのでは??
うーん、その可能性もかなり高いなあ。

まあ、とりあえず、書きすすめてみます。


物語の冒頭、ヒロイン青豆は、自分が今までとは別の世界に来てしまったことに気がつきます。
そこは、武装集団と警察との銃撃戦があり、NHKの集金人は支払いを拒否した大学生を包丁で刺す、ちょっと暴力的な世界でした。

そして、この世界には二つの月が浮かんでいます。
(緑色でゆがんだ月は、緑の月=青豆という連想や、青豆の左右で大きさの違う乳房を連想させます。)
が、これこそ、青豆が別の世界に入り込んでしまった象徴なのです。

読者は、こんなふうに考えるでしょう。
青豆が別の世界に入ってしまった事はわかった。
次に気になるのは、青豆の恋人(となるべき)天吾はどこの世界にいるのだろう、ということだ。

なぜなら、天吾と青豆が同じ世界にいないとなれば、二人の出会いの可能性は大きく下がってしまうからです。
つまり、読者は、天吾には月が二つに見えるのか、ということがものすごく気になってくるのです。


ところが、ここでまた、村上春樹は、私たちをじらします。
小説中の小説、『空気さなぎ』では、「空気さなぎができるとき月は二つになる」(Book1 309)、と描かれています。
ということは、この小説がベストセラーになる世界では、「月は一つだけ」という常識が共有されているのです。

天吾の生きる世界では、みんなは一つの月しか見えていない。
だからといって、天吾には二つ見えている、ということもあるんだろうけど、、、、、その可能性は低くなった(ように見える)。

そして、さらに後半に、青豆が『空気さなぎ』の本を読み始めるに至って、いよいよ読者は、二人の暮らす世界の位置関係はどうなっているんだろう、と幻惑されるしくみになっています。


村上春樹がよく使うテクニックなのですが、
「これってAなのかBなのか、どっちなんだろう」
と読み手が思っていると、突然の一行で、謎が深まったり、明確に解けたりする瞬間が気持ちいのです。


今までのところを少し整理してみます。

物語をアタマから読んでいる過程では、天吾がいる世界は青豆と同じ「1Q84」の世界なのか、かなり先まではっきりしません。
なにしろ、天吾は、大規模な銃撃戦についても、ぼんやりと記憶にある気がする、という程度なのです。
もしかしたら、天吾は1984に留まっているのか、それともさらに別の世界に行ってしまっているのかもしれません。
でも、違う世界であれば、そもそも青豆とは会えません。そんなわけで、天吾がいる世界がどこなのか、は、天吾が月を発見するまでは、物語上の巨大な推進力になっています。


これが判るのは、Book2のp394まで待たなければならない。2冊目も4分の3を越えたあたりで、ようやく天吾は月を見ます。
ここで彼が見るのは、二つの月でした。

「月は相変わらず寡黙だった。しかしもう孤独ではない。」
ここでようやく、緑色の月=青豆と、黄色い月=天吾が、よりそっていることがわかるのです。


引っ張りましたね、ハルキさん。

でも、待っていたがゆえの、じんわりと感動的な瞬間です。
やっぱり二人は同じ世界で求め合っていたのだな、という。


---

さて。

この小説の続編があるのか、については、いろいろな意見が言われています。
しかし、私は、続編はないのではないか、という気になってきました。

まずは、この『1Q84』、バッハの平均律クラヴィーアの、2冊各24曲を模した構成になっています。
そして、バッハには"well-tempered clavier, book.3"は存在しません。
もう一冊書くことは、この均衡を破ることになるのです。


そして、続編がないと考えるもう一つの理由は。

小説の本当におわりあたり(Book 2 p498)に、天吾が、空気さなぎのなかの少女に、「青豆」と呼びかける場面があります。
この場面、時間的には青豆が拳銃をくわえた日の夜です。

天吾の呼びかけを、
「青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする」。

私は、この一行で、どんなタフなことがあったにせよ、青豆はこの世界のどこかで生きているんだ、と思いました。

こうして二人のことには決着がついているのだから、もうこの先に続編をつける必要がないのではないか、と思うのです。


さて。
今、気になっているのが、猫の街とは何か、です。
それは、以下の二つのシーンの強い共通性がヒントになっています。

まず、天吾とふかえりが交わる(ふかえり曰く猫の街に行ったことの「おはらい」をする)シーン(Book2 p304)。

---
「口は軽く半開きになり、唇がさざ波のように微かに動いているのが見える。それは何かの言葉を形作ろうと中を模索していた。」
(中略)
「テンゴくん」とふかえりは行った。
---

そして、青豆が拳銃を口にくわえるシーン(Book2 p473)で、青豆が「天上のお方さま」といつもの祈りを捧げ、そして「天吾くん」と青豆が言う場面。

この二つのシーンの関連について考えてみると、何か見えてくるのでは、という気がしています。


追伸

今、私が見ているNHKのテレビは、夏至のキャンドルナイト特集をやっています。電力を使わないようにするんだったら、そんなテレビ番組を作るのって、かなり、そのスタート地点から矛盾してる。。。。。
でも、このTV、スタジオが生で展開している(=同じ時間を共有している)という事実が、妙に私を惹きつけるのです。

村上春樹の本も、矛盾している事で有名(?)ですが、、、、、

まあ、いいんですよ、矛盾していても。

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2009年6月10日 (水)

発射されない拳銃 ~異形のメタ小説『1Q84』~

村上春樹の『海辺のカフカ』には、超能力を持つ老人「ナカタさん」が、ヒルや魚の雨を降らせるシーンが登場します。
昨日、まさにそのシーンを読んでいたのですが、今日は新聞でこんな記事を読みました。


asahi.comより「空からオタマジャクシが降ってきた? 石川県で相次ぐ

空から魚が降ってくることは時々は起こることのようですが、(Google検索”空から魚が”)、それにしてもねえ。

記事を読んだとき、現実とフィクションの境目が少しばかり薄くなった気がして、頭がクラクラしました。
。。。。。。。。
どうやら、世界は日増しにハルキ化しているようです。

(「ハルキ化」とは、「明らかに何かの象徴らしい不思議な事が起こるが、それが何を象徴しているのは明かされないこと、その度合いが強まること」ということにしときましょう。)

---

前回、前々回と『1Q84』について書いたあと、頭の中で寝かせている間に、なんとなく解ってきたことがあります。


「解決しない謎が頻発する」というのは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』あたりから顕著になってきた特徴です。
そして、最近になるほど、村上春樹は確信犯的に、「解決しない謎」を振りまくようになっているような気がします。

これ、「登場した拳銃は発射されなければいけない」という従来のドラマツルギーに照らしていえば、かなり異様なことです。
でも、それに対しての村上春樹の回答は、「拳銃は発射されないこともある、その方がドラマチックなら」、でした。

そして、読者も、たくさんの発射されない拳銃を見ながらも(そして時々は文句をいいながらも)、きっちり村上春樹についていっているわけで、ということは、村上は、新しい小説のスタイル、というかコンセプトというか、を確立させはじめているのでしょう。

では、どんな拳銃は発射され、どんな拳銃は発射されないのでしょうか?これが私にはわかりません。
でも、村上春樹は、確かに二種類の拳銃を使い分けて物語を進めているようです。

これって、前衛的な絵を見る時に、「作者はなぜここで完成だと思ったんだろう」と思うのと似ています。
もっと塗り重ねてもいいし、逆に、キャンパスが白地のまま残っていてもよかった。でも、作者は、どこかの時点で、「ここで完成」と線を引いている。
でも、その「完成した」という確信は、どこからなぜ生まれてくるんだろうか。


さらにいえば、続編の『book3』が出るか出ないか判断できないのは、村上春樹の小説の、この特異性によるものです。
『book 2』で終わってもアリ、終わらなくてもアリ、ということを、私たち読者は既に『ねじまき鳥クロニクル』を通過して学んでしまっていますからね。


---
さて。

以前、村上春樹は、自分の小説に「解決しない謎が多すぎる」ことについて、こう答えています。
「僕ら小説家の仕事はうまい回答を出すことよりは、むしろ優れた設問を提出する事にあります。」
(読者とのメール書簡集『少年カフカ』p52より)

さらに、『1Q84』の中でも、村上小説を読む上での「ゲームの規則」についてくりかえし書いています。
それは、「疑問の答えを探す事は重要ではない。疑問を疑問のままで抱えながら、考え続ける力を持つことが大切だ」、というものです。
(すいません、本文から引用したかったのですが探し切れない、、、)


ここまで考えて、『1Q84』とは、村上春樹が「小説を書くこと/読むこと」の意味を考えつつ、その考える過程自体を小説に取り込んだ、究極の「メタ小説」(小説についての小説)ではないかと思いました。

村上春樹は、

なぜ自分が書く小説には謎が頻発するのだろう。
なぜ、自分は沢山の謎を未解決のまま積み残している小説が「完結した」と思えるのだろう。

、、、そんな疑問を、読者と同じ立ち位置で悩みながら、新たな作品を紡いでいるように見えるのです。

『1Q84』は「優れた設問」に満ち満ちているので、今のところ消化不良になっていますが、逆に言えばこれこそ再読する条件。
時間をおいて、ゆっくりと何度も読んでいく楽しみと、意味があると思います。

追伸

「登場した拳銃は発射されなくてもいい」。
となると、、、、思い出すのはラストシーンの拳銃。

登場の場面から、熱烈な枝豆青豆ファンになってしまったので
(ならない人がいるだろうか?)いよいよ続編に期待が高まります。


さらに追伸

パシヴァ(知覚するもの)と、レシヴァ(受け入れるもの)の関係は、翻訳においての作者と翻訳者を思わせます。
つまり、この小説には、翻訳者・村上春樹の翻訳感も描かれているのだと思います。
このへんも「『1Q84』はメタ小説である」という考えが浮かんだ所以ですが、これは上記の話とはあまりにも筋が違うので、またいつか。


最後に、「参考」。

asahi.comの記事「空からオタマジャクシが降ってきた? 石川県で相次ぐ」より

----(以下引用)------

空からオタマジャクシが降ってきた? 石川県で相次ぐ

2009年6月9日12時0分

 空からたくさんのオタマジャクシが降ってくる「珍事」が今月に入って石川県内で相次いでいる。竜巻に巻き上げられた魚などが地上に落ちてくる現象は知られているが、当時は竜巻が発生しやすい状況ではなかった。鳥が運んだ可能性も低そうで、原因はわかっていない。

 最初に確認されたのは4日午後4時半ごろ。七尾市中島町の市中島市民センターによると、センターの駐車場にいた男性職員が「ボタッ、ボタッ」という鈍い音を聞いた。振り返ると、車の上や地面に体長2~3センチのオタマジャクシが大量に落ちていた。

 センター内にいた同市職員の舟倉究(きわむ)さん(36)が見に行くと、自分の車の天井やガラスなどにオタマジャクシ約10匹がへばりつき、周囲で100匹ほどが死んでいた。高いところからオタマジャクシをばらまけるような場所は辺りになく、「空から落ちてきたとしか思えない」。8日午前8時ごろには、センターの西約4キロにある七尾市議宅の玄関付近にもオタマジャクシ5匹が落ちていたという。

 七尾市中島町から約80キロ離れた白山市徳丸町。石川信子さん(75)は6日午前7時半ごろ、「オタマジャクシが落ちている」と近所の人が話すのを聞いて外に出た。長女(47)の車のボンネットの上で体長約3センチの5~6匹がつぶれ、周囲にも30匹前後が落ちていた。「この地に40年近く住んでいるが初めてのこと」と不思議そうに話した。

 金沢地方気象台によると、オタマジャクシが見つかった日時場所の大気状態は安定し、竜巻が起こる条件ではなかったという。いしかわ動物園(能美市)によると、サギやカモなどがオタマジャクシを食べることはあるが、「100匹以上を一斉に同じ場所に落とすとは考えられない」という。

----(引用おわり)------

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2009年6月 6日 (土)

ジャムってる。~『1Q84』を読了して~(ネタバレあり)

"jam"という言葉。
ジャズなんかでは、即興演奏を一緒にすることですが、「群がる」、とか、「ギュウギュウづめになる」、という意味もあります。
コピー機の中に紙が詰まって、出てこない状態も、「ジャムる」って言いますね。

「頭の中がジャムってる。」
まさに、今の私の気分にぴったりです。
言いたいことは沢山ある「ような気がする」んだけど、未整理で、言葉にならない感じ。
(でも、言葉にならないということはまだ掴んでない、わかってない、んだよな。)


さて、先日本を買う前に、いつもの喫茶店に行って、マスターに村上春樹の新作が出たという話をしました。
そういうこともあって、昨日また喫茶店に行ったとき、「どうでしたか?」と聞かれました。
うーん、と困って、「読み始めたら止まらなくなりますよ。でも、かなり挑発的な小説かもしれません」と、わかったようなわからないようなことを答えてお茶を濁してしまいました。

そんな濁った頭を抱えたまま、まだ読み返す気にもなれずに、机の上に寝かせています。

そうしていると、心のどこかで引っかかっていたけど、読んだときには自分でもそれと気がつかなかったことが、ふっと頭をもたげてきます。
まだ断片なのですが、それをちょっと言葉にしてみようかと、思い立ちました。


「天吾」という名前のこと。

"yo la tengo"ヨ・ラ・テンゴというバンドがあります。

静かなる前衛、という感じで、ゆがんだ轟音ギターに美しいメロディ。
小さな音で聞くと、とても沁みます。
表面は静かな河だけど、その川底は深くてひんやりしていて、見えない深みではずいぶん多くの水が流れている、そんなバンド。
これとテンゴの名前は、関係あるのだろうか。

もう一つ、天吾くんがらみですが、なぜ村上作品に登場する性描写って、男性がいつも受身なのだろう、と思います。
シャーマン的な一面を持った女性に導かれて関係を持ってしまうことがとても多い。
今回は、その受身度がたぶん5割ぐらいは増していて、(理由はわからないけど)体がしびれて動かないという状態でのセックスという。。。。なんだか言い訳じみていて、ちょっと引っかかる、というか、あんまり好きになれないシーンでした。
なぜ、こんなふうに、自分の意思でなく関係を結んだことが強調されるんだろう。


最後にもう一つ気になったのが、「損なわれる」という言葉の使い方です。

今までの村上春樹の小説でも、「損なう」「損なわれる」という言い方は出てきました。特に、『ねじまき鳥クロニクル』での使い方は、とても印象に残るものでした。
「傷つく」とか「気がふれる」とか、そういう他の表現には回収できない、なにかとても特別で悲劇的で、不安定な状態を「損なう」という言葉で表していたように思います。

『1Q84』でも天悟の恋人の夫からの電話で、恋人が「損なわれた」ことを告げられます。
でも、ここで感じるのは、今までの不吉な得体も知れない状況ではなく、、、、、なんて表現すればいいんだろう、絶対的で安定した状態のように感じるのです。
なぜこう思ったのだろう。でも、前のブログで書いた、混沌が「わかりやすい混沌」になってきている、という印象の原因の一つは、たぶんこれです。

さて、
『1Q84』、売切れが続出したりして、またニュースネタになっているようです。
情報を全く出さないという販売戦略が当たった、というのはそうなのでしょうが、これだけたくさんの人が村上春樹を求めたというのは、何か深いところで村上春樹が描くものが、深いところでゆっくり共有されてきた、地殻変動の証みたいなものなのかも、とぼんやりと思っています。

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