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2010年4月18日 (日)

いくつかの「もし」 ~1Q84 ing なう~

「1Q84 ing なう」 。

ご無沙汰です。

村上春樹の新刊の話題ですが、後半はネタバレありますので、未読の方はご注意ください。
改行はしてありますけど、、、、、。


さて、なんだか売り切れている書店もあるらしい、村上春樹の『1Q84 Book3』。
昨日ちらりと覗いた書店では平積みの山積みが残っていたので、地方書店では売り切れの心配は要らないのかもしれませんね。
とりあえず、昨日読み終わりました。


読み終えて、まずはTwitterを覗いてみました。(Twitter、最近ようやく始めたのです。)読んでいる間は、ネタバレするのが嫌であえて検索を我慢していたんですが、"1Q84"を検索すると、予想通り、「読了」「お風呂で○章まで読了」とか、「○書店完売」とか、さまざまな呟きが飛び交っていました。
(ちなみに、内容をネタばらしするような書き込みはほとんどなかったけど、一部「読書ノート」的に使っている人もいるので、未読の方はTwitterは覗かない方が賢明です。)

これを見て思ったのは、意外にツイッターをやりながら読み進める人が多いんだな、ということでした。Twitterの共時感覚は、「同じ本を一斉に読む」というイベントにすごく向いているようです。読み終わっての感想だけでなく、書店に行ったけど買えなかった人、途中まで読み進めた人、眠くて中断する人、、、、、それぞれが、各自の生活時間の中で、それぞれの形で同じ本に関わっている、というのがわかるのがおもしろいのかもしれません。


これがTVとなると、ツイッターとの連動の可能性は大変なものがあると思います。たとえば、ちょっと前に話題になった、NHKスペシャルとU-STREAMの同時放送。簡単に言うと、地上波での生放送のウラで、ネットでも生放送をする、というものです。、、、、これでは簡単すぎでわけがわからないですね(笑)。
最近は、ネットで、個人的に動画を配信する技術がすごく進んでいて(中には自分の部屋から日常生活を生中継する人までいます)、その一つがU-STREAM。ここを利用して、NHKの生放送を見ながら、ネットの有名人(ホリエモンさんなど)があーだこーだ言う、というNHKの「裏番組」を、作っちゃったのです。カメラは1台で、ほとんど固定カメラですから、たぶん裏方さんも最小限の人数で安く作っていると思います。
いわば、「メタ番組」を作るわけですね。
この「裏番組」には、NHKの番組の映像も音声も一切出ないので、著作権的な問題は全くありません。見る側は、テレビをつけながら、パソコンの動画配信を見ることになります。

ついでに言えば、NHKスペシャルの内容についても、U-STREAMについても、別々にTwitterされていましたので、「テレビ」「パソコン動画」「テレビについてのツイッター」「裏番組についてのツイッター」を同時に見るという、見る側にとってはすごく大変な、聖徳太子風の視聴スタイルでした。私も、どっちかを追えばどっちかがお留守になってしまうので、みんなテキトーにしか見聞きできなかったのですが、、、、、

でも、面白かった!
例えば、今後は、オリンピックの生放送を見ながら、そのウラ舞台を知るOBが、言いたい放題の放送をウラでやったり、、、。このアイディア、裾野がすごく広いのです。放送であれば流せないような罵詈雑言も飛び交ったりしたので、かなりの悪評も買ったようでしたが、私にはものすごく画期的なフォーマットに見えました。


一方、本の場合は、読み進める速度がみんな違うのでテレビほどの完全な共時性が楽しめません。このへん、古いメディアというよりは、テレビにはない強烈な個性を持っていると言ったほうがいいでしょう。
活字を手にしていると、たとえ何十万人が同時に同じ本を手にしていようとも、読みながら立ち上がる世界は人それぞれ違うのだ、ということが強烈に感じられるのです。

さて、ここからはネタバレの話が始まるので、未読の方はこのへんで。10ほど数を数えておきます。









10


11

12

13


14

ちょっと数えすぎてしまいましたが。
まあ、このへんで大丈夫でしょうか。。。。。

村上春樹が今回のBook3を書いたのは、牛河という典型的な俗物に「魂を入れる」つまり、「きちんと心を与えてやる」ためだったのではないかと思っています。村上さんの関心は、どんどん「俗」を自分の世界に取り込む方向に向かっているようですが、その流れの一環として。


こんなことを思ったのは、『1Q84』の中で、唐突に「我々」ということばが登場したのがひっかかっていたからです。

小説中の地の文で、唐突にこんなフレーズが入ります。

「ここでいくつかの「もし」が我々の頭に浮かぶ。もしタマルが話をもう少し短く切り上げていたなら・・・(以下略)」
(『1Q84 Book3』 p339より引用)

「我々」?

文脈から見れば、「我々」というのは、作者と読者を指すと思われます。しかし、こんなところで作者が読者によびかけるというのは、かなり唐突で掟破りな手法です。

私は、まず、いくつかの映画を思い出しました。
ゴダールの映画で、「俳優がカメラ目線で観客に語りかける」ものがありましたね。
そのほか、いくつかのギャグ映画や、ドリフターズの『全員集合』でも、よく見たような気がします。
また、『フランケンシュタイン』の映画の冒頭には、作者が登場して、「これは物語なので動揺しないように」と観客に語りかけるシーンがありました。
また、この映画はエリセの『ミツバチのささやき』にも引用されていました。

(後記; 『フランケンシュタイン』では、作者がビロードのような幕(たぶん映画館の暗幕のイメージ)から作者が登場し、ひとしきり語った後幕の中に引っ込み、それから物語が始まる、という段取りを踏んでいるので、映画の始まる前の作者解説に類するといえなくもなく、ぎりぎり物語のフレームは守られているといえます。ここで取り上げる例としてはちょっとふさわしくなかったかな??)

この演出は、スクリーンの内と外の垣根を取っ払ってしまう効果があります。普段は、物語を蚊帳の外で見ている観客に対して、物語のほうから、現実に侵食し始めるわけですから、見る側にはかなりのインパクトです。でも、効果が強すぎるので、一種飛び道具的でキワモノっぽい演出にみえかねない危険をはらんでいます。
村上春樹がここでやっていることは、この活字版です。

しかし、『1Q84』での手法は、地の文の中にさりげなく置かれ、その技法のインパクトを強調することなく、さりげなくフェードアウトし2度と登場しないというのが、とてもフシギです。私には正直かなりの違和感がありました。それならそうと、技法を「立てて」書いてくれれば、狙ってやっているのだと安心できるのですが、この場合、そうではない。「我々」は、さりげなく登場し、その後登場しないのですから。

ふと連想するのは、『アフターダーク』で、用いられた、俯瞰カメラからの視線のような記述ですが、あの時はあざとく、何度も使われていました。つまり、この「あざとくなく」「さりげなく」使われているということ、「我々」に村上春樹が込めた意図を読み解く上での核心のような気がします。


こうして、問題が見えてきました。

村上春樹は、この掟破りの「我々」を、しかも「さりげなく」書いてしまうことで、何を狙ったのでしょう。

今日は時間切れで、牛河の問題までいけませんでした。いずれ続きを書きたいと思います。

直感的には、物語がさりげなく現実に侵食してくる感じ、この感じが大事なのではないでしょうか。「壁と卵」の話での小説家の社会参加とか、村上春樹がアクティブに社会に関わっていこうとする姿勢と、つながっている気はします。

とりあえず、月が3つになってなくてよかったですね。
ではまた。

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