映画・テレビ

2010年12月23日 (木)

ノルウェイの海

先日来、映画『ノルウェイの森』の、あるシーンをくりかえし反芻しています。
それは、直子が自死したあと、ワタナベが海辺で泣くシーン。

原作でも、日本海側をわずかな荷物を持って旅して、海辺で泣くシーンはあったかな。確か、あまりにひどい姿に漁師に同情された、というエピソードだったような気がする。でも、それはミドリとの会話の中でちらりと出てくるだけで、あそこまでリアルに泣いている描写はなかった、と思います。
身も世もなく、という言い回しがあるけれど、ほんとうにその表現がぴったりするほど泣いているワタナベ。これこそ、映画にしか描けないシーンだと思います。

ワタナベの涙とヨダレが一つの筋になって、日本海の風に吹かれる。それは、流れ落ちることなく、いつまでも風の中でブラブラ揺れ続ける。

背景にはインスタントラーメン(?)の食べたあとがあったりして、それがまた哀しい。人は、大事な人を亡くしてもお腹が空く、という単純すぎる事実。泣いて、泣いて、泣いて、でも、いつか泣き止むことが出来るのは、、、、一つの希望のありよう、というしかない気がします。
希望と絶望が等価な、感情の彼岸。そこには、いきものの哀しさがあります。

直子の象徴する幻想的な世界と、ミドリの象徴する現実の世界。その二つの間で分裂しながら生きてきたワタナベが、「やっぱりお腹は減る」「やっぱり性欲はある」という事実をテコに、現実に戻ってくる、、、、なんだか、とても哀しいんだけど、それはとてもうなづけるのです。

現実に戻ってきて、せっかくのミドリとの電話にもぼーっとして「僕は今どこにいるんだろう」とボケをかますワタナベだけど、願わくば、次にミドリと会った時には、とても激しくて気持ちのいいセックスをしてほしいなあ。

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2010年12月13日 (月)

深い森の奥から~映画『ノルウェイの森』からの帰還~

今日、映画『ノルウェイの森』を見てきました。

見終わったいま、とても、感情的に動揺しています。なので、見てきたばかりのこのタイミングで何が書けるのかという気もするのですが、書かずにいられないというところもあり、蛮勇をふるって「みみをすます」を書き始めてみます。


なんか、とてもフィジカルな映画、というのが最初の印象でした。うーん、この言い方、正確なのかなあ。。。。。

小説の『ノルウェイの森』になじんできた私からすると、とても困惑したことは確かです。たとえば、セックスの描写ひとつとっても、(小説と同じ状況にもかかわらず)生身の役者さんが演じている分、そこには確かな肉体性というものが宿ってしまう。映像だと、セックスのシーンでこんな声を出して、こんなふうに身体を反らし、こんなふうに眉をひそめるんだ、という、とても具体的なものが見えてしまうので、すごく自分から離れた光景に見えてしまうのです。
それは、背景となった学生運動で荒れる大学とか、お誕生日ケーキのおいしくなさとか、いろいろな場面でで同じ感想を持ったのですが、、、、、、、
それぞれの光景は(当然ながら)私が経験してきた大学や、セックスや、お誕生日ケーキとは違うわけで、小説を読んでいる時に感じていたリアルさとは、絶対的な距離感があるのです。
平たく言えば、活字を追っていたときは、まさに自分の恋愛の変奏曲のように感じられていた親密さが、映画となってしまうと、明らかに別の誰かの物語として見えてしまうわけです。


私には、直子は骨太すぎるように見えたし、緑は繊細すぎるように見えました。配役が逆でも成立するよな、みたいな。

要するに、映画での二人は交換可能な感じなんですね。立場がちょっと違えば、二人は逆でもありえたような。
でも、小説の『ノルウェイの森』のリアリティはそういうところになくて、直子は不安定な気持ちの中でしか生きられなかったし(死ねなかったし)、緑は、真っすぐ、時にうっとおしがられながらもワタナベを愛さざるを得なかった。それぞれが、別な意味で押し付けがましいキャラを持っている。そういう意味では、二人ともめんどくさいキャラなのです。
その二人の間の溝こそが、小説の読みどころだと思うのだけれど、映画では、そうでもなかったですね。特に、緑と向き合うときのめんどくささ(と、それゆえのいとおしさ)がちゃんと描かれていない気がしました。

余談ですが。
やっぱり菊地凛子さんについて考えざるをえないなあ。精神的に不安定な人を演じるのって、女優のひとつの典型だと思うのですよ。アカデミー賞に近づけるというか。直子みたいな役を、菊地さんが自ら手を上げてやりたいといってしまうのは、すごくよくわかる。そして、その役作りに全精力を傾けたい気持ちも、彼女の中での必然性も、、、、、菊地さん自身の性向も含めて、分からないではない。
でも、やっぱり私は、そういう菊地さんに違和感を持ち続けるんだろうなあ。

ああ、いまなんとなく分かりました。小説の中の直子は、「直子を通じて自分のある部分を見せたい」みたいな女優の性(さが)とは無縁だし、そもそもそういうギラギラした感じとはすごく離れたところにいるわけです。そういうのを、画面は正直に映し出してしまいますからね。とはいえ、菊地さん以外に直子が演じられたかというと、またそれは難しいところなんですが。

強引にまとめると
、、、、、、、、、、
女優さんがみんなミスキャスト、ということになるんでしょうか。

でも、一方では、緑を演じた女優さん、大好きでもある。
小説で描かれたような、生と死に見事に対応するような緑と直子ではなく、どちらも似たところを持って、でも魅力的な緑と直子、その二人の間で揺れるほうが、多くの人(私も含む)にとってはリアルな物語ではあるのかもしれません。

最後に、音楽。
映画では、Canの名曲てんこ盛り。 "She Brings The Rain"など、なつかしい曲が、きちんと場面に呼応されて流れています。当時、本当にCanを聞いていたひとがどれぐらいいるのかわかりませんが、抽象的に70年代初期を象徴する音楽だと思います。

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2009年3月18日 (水)

宙づりにされて~映画『チェンジリング』~

お久しぶりです。

昨日、久しぶりに映画を2本見ました。クリント・イーストウッドの『チェンジリング』と、『007慰めの報酬』。
長い長い仕事が終わって、週末まではお休みです。

『007』は、カーチェイスが多くて楽しめました。ちょっとボンドの内面も描いたりしていて、そのため地味でダークな印象が残ってしまうのですが、楽しめますよ。マティーニを7杯も飲んで、ろれつが怪しいボンド、、、、。ベースのジンの銘柄がゴードンだったのが個人的には◎。
ボンドガールはすごくたくましくて、この設定もなかなか。女優さんがよかった。
そうそう、『潜水服は蝶の夢を見る』の主人公、、、、えーと、名前を忘れてしまったのですが、彼が悪役をやっていて、これも面白い。
まあ、『007』の方はそういう感じで。


映画『チェンジリング』には打ちのめされました。
無慈悲な映画。世界が無慈悲なのと同じ意味で、無慈悲な映画なのです。

イーストウッドの狡猾さ(あえて言いますが)は、ハリウッド映画の文法を遵守しながら、本当の絶望をポンと私たちの目の前に突きつけてくることにあります。

平凡な幸せ⇒受難⇒主人公の鋼鉄の意志⇒ハッピーエンド(たぶん)

こんな、ありふれた図式の中に、世界の残酷さをこめること、それがイーストウッドの企みです。(もしかしたら、『許されざる者』あたりから、彼の戦略は一貫しているのかも。)

どっちつかず、という状態がいちばん辛いと思うのです。ダメならだめで、気持ちの切り替えようがあるのに、ダメかどうかの決着がつかないから、気持ちを切り替えられないまま、ずっと宙吊りのままで置かれる苦しさ。


どうやら話の展開上、ストーリーや映画の終わり方に触れないわけにはいかないようです。
今回はネタバレありにさせてください。


物語は、失踪した子供が、やっと5ヵ月後に帰ってきた!と思ったら、全くの別人だったことから始まります。アンジェリーナ・ジョリー演じる母は、息子の無事をひたすら信じて探し続けます。

『チェンジリング』というタイトルは、意味深長です。
Wikkiでchangelingを調べてわかったのですが、「Changeling 取替え子」というのはヨーロッパの伝承で、子どもが妖精によって別な子に取り替えられてしまうこと。前よりもいい子に取り替わってハッピー!となることはあまりないようです。取替え子は、火の中に入れたり、殴ったりすると本当の子供に戻ると考えられていました。

つまり、この伝承は、自分になつかない子、できの悪い子、障害のある子を虐待する時のエクスキューズなのです。こんな悪い子なんか私の子供であるわけがない、だからいじめていい、殺していい、というわけです。

この映画では、その論理を逆手にとって、LAPD(ロサンジェルス市警)の警官が、「自分の子供じゃないふりをして子供を虐待するのはやめろ、息子が浮気の邪魔なんだろう」と言います。
この論理のもと、彼は、母親が、「チェンジリング」にかこつけた児童虐待をしているのだと弾劾するのです。

この映画は、このように、社会が個人に無慈悲に貼るラベリングと、その強靭さを描く映画でもあります。

警察の「お前はわが子を虐待している」というラベリング。
医師の「言うとおりにしないのならお前は精神異常だ」というラベリング。
彼女をずっと応援してくれていた牧師も、「警察の被害者」というラベルを彼女に貼り、社会運動の象徴として利用します。事件が沈静化した後、「(これ以上息子にこだわると世間があなたを異常と見るから)もう息子のことは忘れなさい」と助言してしまうのです。
ラベルを貼る側は、つねに強者です。強者が貼るからこそ、貼られた側はなかなか反論できないし、反論してもラベルが剥げないのです。

しかし、彼女は、あらゆるラベリングにノーを申し立て、息子を探すことを諦めません。
そして、こんなに毅然としたヒロインが、希望を持つが故に、常に打ちのめされ続けるのです。その打ちのめされ方が最低にひどい。


映画は、エンディングに向けて、「息子は生きているのか」にフォーカスしていきます。ところが、殺人鬼は、息子を殺したかどうか、証言を2転3転させ、あげくの果てに、そのことに口をつぐんだまま死刑にされてしまいます("Did you kill my son?")。
そして、最後には殺人鬼から無事逃れた少年が登場し、いよいよ息子の生死は不明確なものになっていきます。
映画は、最後まで、息子が本当に死んだのか、明らかにしてくれません。

息子が見つからない、というのは、形を変えたハッピーエンド、というのがこの映画のスタンスのようです。
実話をもとにしているというところが、この映画のずるいところです。
「死んだと決まっていないんだから、息子を探し続けるわ」、というエンディングは、ハリウッド映画の鉄則「希望」を踏襲しています。
しかし、映画ラストのコメントで、「彼女は生涯息子の生存を信じ、探し続けた」と言われると、(そしてそれは実話なのです)、、、、。
彼女は、生涯、息子探しという地獄に放りだされたままだったということになるのです。

、、、、、。
でも。
今思いなおしました。これは、地獄なんだろうか。

今や、ハッピーエンドって、こんな形しかありえないのかもしれません。

たとえば、あるカップルを描いた映画があったとします。
映画中に何度か危機的状況があって、二人はそれを乗り越えてゴールイン、でめでたしめでたし。。。。。。

でも、そんな映画を見ても、やれやれハッピーエンド、とはなかなか思えないんですね。
結婚前にあれだけすったもんだした二人なんだから、結婚をしたとしても、きっとその後もいろいろ事件はあるだろうし、場合によっては別れちゃうかも、と思ってしまうんです。だから、ハッピーに、あらゆる問題が解決されたかに見えても、なんだかすっきりしない気分で映画館を出ることになります。

二人の物語は、結局二人ともが死んでしまうまでは終わらないのです。

そういう意味では、「チェンジリング」の終わり方、つまり、「息子が死んだかどうかわからない、でも生きている事を信じて探し続ける」、という、"open"な終わり方は、最もリアルで誠実なエンディングなのかもしれないのです。

なんだか、久しぶりの投稿なのに暗い話になってしまいました。

が、映画は様々なところがハリウッドマナーで、最後まで楽しめる映画、ともいえます。さすが、イーストウッドです。
私がどきどきしたのは、犯人がいるかもしれない鳥小屋を警官が捜索するところ。
無造作においてあるたくさんの刃物が何度もクローズアップされたあと、わざと警官たちの背中方向が見えにくいフレーミングでカットが重ねられます。
見ているこちらが、「背後から誰かが襲い掛かってくるんじゃないか、もっと部屋全体を見わたしたいっ」というサスペンスに耐え切れなくなったところで、鶏が背面から突如フレームイン。

あれは、どっきりしたなあ。

・・・・
今回の記事で、いちばんネタバレしちゃダメなのは、この鶏の話かも。

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2008年12月22日 (月)

最高のクリスマスプレゼント

思わず、「何だって!!!」

ビクトル・エリセのDVDボックスが再発です。
これで、「ミツバチ」も「エルスール」もこころおきなく見ることができます。

12月26日、1日遅いけど、これは最高のクリスマスプレゼント!

久しぶりでアフィリエイトへのリンクのやりかたを忘れてしまったので、とりあえずここに。

ああ、遅刻しそうです。

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2008年4月 8日 (火)

眠ることと食べること(『マイ・ブルーベリー・ナイツ』)

先日、映画『マイ・ブルーベリー・ナイツ』を見てきました。

うーん、、、ロード・ムービー、なのかな。
旅人はノラ・ジョーンズ。
ロードムービーと言うと行きっぱなしの一方通行ですが、ニューヨークのカフェを出発したノラは旅先からいつもカフェのマスターに手紙を書き続けます。帰るところが常にある旅。だから、厳密にはロードムービーではないのかもしれません。

ノラ・ジョーンズがなんか、いいです。
うまいとか、味があるとか、あと、存在感があるとか、そういうのではないのですが、彼女が出ているだけで映画が成立してしまうような魅力。キャスティング勝ちでしたね。
彼女が泣きながら食べるシーンがあるのですが、ほんとうに、いい。

この日はメガネを忘れてしまっていました。私の視力は0.2。なので、前列から3列目で見ることにしました。
しかし、この映画、とにかくアップめが多い。というか、ミドルサイズより広いサイズがほぼない。部屋の全景が写ることがまれという徹底したアップの連続。レールショットやちょっとヒネた編集、短いカットを叩き込む編集など、随所に「ちょっとオシャレ」感が漂っていましたが、、、。もう、目が疲れて疲れて、、、、。

しかし、こんなにアップが多くて、しかもタイトルに食べ物の名前を使っているのに、食べ物がまるでおいしくなさそうなのはどういうわけでしょう?
冒頭、ケーキにクリームがたらりと流れるスローモーションとか、おなかが鳴るぐらい美味しそうに撮れるはずのところだとおもうのですが、そういう撮影が、ケレンに流れてしまった感じがちょっと不満でした。
色は、くすんでるのに色数多く鮮やか。アメリカの色だなあ、という感じではありました。

主人公に惹かれているカフェのオーナーが、すごく寒いのに外でタバコを吸うシーンがあります。ニューヨークは、公共の場所で吸っちゃいけないというのは聞いていましたが、店が閉まっているとき、オーナーが吸ってもダメなんでしょうか。
なんか変なところばかり気になってしまいました。

サントラの選曲は最高でした。
薄暗いバーでかかるオーティス・レディング。日本でいえば、裸電球の居酒屋で八代亜紀の「舟歌」がかかっているみたいな、どまんなか過ぎる選曲です。
静かなシーンで、チェロの開放弦の弓引きの音がスネークインしてきてゾクっとしてしまった、カサンドラ・ウイルソンの「ハーヴェスト・ムーン」。
ライクーダーの仕切りで、見事な「ダーク・サイド・オブ・アメリカン・ソングス」に仕上がっています。

眠る、食べる、飲む。
人間が当たり前にすることの哀しさが、胸に迫る選曲です。

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2008年3月22日 (土)

オウムの刺繍

ブログが五月雨になって、そして五月雨と言うには間が開きすぎるようになってからずいぶんになります。
ある時期までは「ブログ、書かなきゃ」と思うこともあったのですが、中断してかなり経つと、逆に「この程度のネタならブログに書くまでもない」と思ってしまって。

でも、それに匹敵するだけのネタが見つかってしまいました。

映画、『ジョゼと虎と魚たち』。

きっと、まめに日本映画をチェックしている人には有名すぎる映画なのだと思いますが、私はごく最近、DVDでようやく見ました。そもそもなんで見ようと思ったのかもあいまいで、たぶん、パッケージの写真(佐内正史さんだった)に惹かれたような気がします。
くるりが担当したサントラのジャケットでも、佐内さんの写真が見事にはまっています。

というぐらいで、全く予備知識なしに見たので、こんなストーリーだとは思っていませんでした。
池脇千鶴が演じる足の悪い女の子ジョゼと、ごくごく普通の大学生(妻夫木聡)がふとしたことで知り合い、惹かれあっていく物語です。
ジョゼは、たぶん学校も途中でやめて、おばあさんと二人暮らしをしているのですが、彼女が外の世界に触れる機会は二つしかありません。一つはおばあさんの押す乳母車に乗っての散歩。もう一つが、近所に捨てられている本を持ち帰って、何度も何度も読むことでした。

この映画を通して、一番私の印象に残ってるのは、ジョゼが着ている服がすごくかわいかったということです。
ジョゼは貧しい暮らしをしているので、たぶんそこらに捨てられている服を拾って着ているという設定。おばさんっぽい服の重ね着が基本です。
でも、実はジョゼは、そうして手に入れた服をすごくていねいにカスタマイズしているのです。私がいちばん好きな衣装は、ジャージの上着の右すそのあたりに大きくスパンコールでオウムをあしらったもので、ものすごく可愛くも独特な服でした。映画の中には服を縫っているシーンは出てきませんが、そのオウムを縫い付けているジョゼのことが思われて、2度目に見たときはちょっと泣けてきました。(とても気に入ったので、結局次の日、また最初から見直したのです。)
クレジットを調べると、スタイリストは、伊賀大介さん。服のカスタマイズも伊賀さん自身が針を持ったらしいので、たぶんオウムも伊賀さんの仕事なのでしょう。気持ちのこもったスタイリングでした。


この映画、ジョゼが作る料理がむちゃくちゃおいしそうでした。ぬか漬け、焼き魚、卵焼きなどなど、定番過ぎるほどの家庭料理なのですが、また妻夫木聡の食べ方がおいしそうで、これはもう、、、、、かなりおなかの減る映画でもあります。
妻夫木さんの演じた男の子が、またすばらしかった。最初は「好きだ好きだ」となりふり構わず愛して女の子の心を捉えて、でもその気持ちが長続きしない、そういう嫌な男の子。妻夫木さんもよく引き受けたと思います。
「自分だけはしないと思ってたのに、俺も心変わりするじゃないか、他人にひどいことできるじゃないか」、と自分の凡庸さに傷つく感じ。自分の心変わりで女の子を傷つけてしまったことよりも、自分が心変わりしたというほうに、より深く傷ついている。でも、そうして傷ついているときに相手の女の子のことは考えていないわけで、やっぱり残酷な男の子と言うことになってしまうのだな。
そんなこんなで、後半はかなりしんどいストーリー展開なのですが、こんなふうにおいしそうにごはんを食べる男の子なら許されててしまう、のかもしれない。。。。

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2007年6月19日 (火)

「地獄の黙示録」と「ブレードランナー」の不思議な関係

今更、地獄の黙示録を見ました。
しかも、こんな有名な映画を初見です。

見ている間、ずーっとブレードランナーとの関係を考えていました。

特に、雨のシーンの濡れた感じ。
執拗に繰り返される眼(瞳)のアップ。
それと切り返しで登場する扇風機。

カーツ大佐と主人公の対話シーンで、、
「お前に地獄を見せてやりたかった」

確か、ブレードランナーでは、
宇宙空間で強制労働させられて見てきたことを
「お前の目に見せてやりたかった、あれは地獄だったよ」
というような台詞がありましたね。

マーロンブランドがレプリカントに見えた一瞬でした。
これだけ類似点を見せられると、やっぱりリドリー・スコットは
意識していたんだろうな、と思わせられました。

でも、地獄の黙示録は、すっきり晴れた日の暴力とか、
ブレードランナーにはない怖さが山のように詰め込まれています。
その、胸焼けするほどの密度が、また凄いのですが。


でも、これだけ金を使って衝撃的なシーンが山盛りであるにもかかわらず、
一番怖いシーンは、マーロンブランド演じるカーツ大佐が、
洗面器で頭を洗うシーンの独白。

マーロンブランド、おそるべし。

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2007年4月25日 (水)

図書館の残響~ベルリン・天使の詩~

ふう。

といきなりため息をつきつつ、久しぶりのログイン。

忙しいという予感はしつつ、少しは更新できるだろうとたかをくくっていたのですが、大嵐がいくつもやってきて、とてもとてもそんなわけにはいきませんでした。

まずは、ゆっくり画面に向かう環境を作っていかないとだめだなあ。時間的にはそろそろ余裕が生まれる時期になってきましたが、もろもろの残響がココロに残っていて、リハビリには時間がかかりそうです。



ヴィム・ヴェンダース監督の映画、『ベルリン・天使の詩』のサントラです。
ドイツ語では"Der Himmel über Berlin"、英語では"Wings of Desire"、フランス語では"Les Ailes du désir"と、各国いろんなタイトルがついていて紛らわしいですね。ドイツ語では「ベルリンの上の空」、英語、フランス語では「欲望という翼」、、、、こいつはちょっと即物的な感じがします。が、ストーリーには"Wings of Desire"の方がマッチしているんだなあ、そういえば。
そう、これは、天使が「愛」という欲望に取り付かれた話なのです。

昔むかし、西と東に分かれていた頃のベルリンに、年をとらず、永遠に人の悩みに耳を傾け、神様に報告するのが仕事の天使たちがいました。ところが、この天使の一人がサーカスの空中ブランコ乗りの女の子に恋をし、天使をやめる決心をします。永遠の命を与えられた天使より、死する人間の方がいいと決心して、人間になった天使。

天使が羽根を失い、人間になったところで、映画は急にモノクロから一転してカラーになります。人間になった天使が、屋台のコーヒーを飲んで、「アッチ!熱いよ!熱いんだ!!」と、「熱い!」という感覚の新鮮さに喜んで変な顔をされたり。頭を何かにぶつけて、血がにじんで、その血が赤いのにまたよろこんで(なにしろ今まで白黒の世界にいましたからね、、、)これも屋台の主人に怪訝な顔をされるのではなかったかなあ(なにしろ20年前の記憶なのでかなり曖昧です)。

ピーター・フォーク(刑事コロンボのあの人ですね)が、実は同じようにして地上に降りた元天使だった、なんてエピソードもあった気がしますが、ディテールは忘れてしまいました。。。。

前半は陰鬱なシーンの連続なんですが、今心に残っているのはむしろその陰鬱な空気感のほうです。ベルリンに実在する巨大な図書館で、いろんな人がいろんな本を読んでいます。確か、天使は人間の額に頭をつけるとその考えていることが聞こえることになっていて、戦争の経験を思い出しながら本をよんでいるおじいさんの考え、苦悩を声としてじっと聞いていたシーンがありました。

私がサントラをわざわざ買ったのは、この図書館のシーンの音響の見事さからでした。

まさにカテドラルのような巨大な図書館で、おおぜいの人が本を黙読しています。その巨大な書架のてっぺんに腰掛けている天使だけに聞こえる黙読の「声」。その声が、ワーン、と反響していく音響設計に心を奪われたのです。

サントラの後半にはニック・ケイヴやローリー・アンダーソンなど、当時先鋭的だった音楽がたくさん入っていて、ヴェンダースの音楽好きが伺える一枚でもあるのですが(これは、『夢の果てまでも』のサントラでも思いましたが)、今聞くと、前半の迫力に圧倒されます。
ベルリンの沈鬱な気分を描く、重苦しくて美しいチェロが全編に渡って流れています。また、映画でも効果的に使われていた詩の朗読「子供が子供だった頃」も、低音好きにはたまらない心地よい響きです。

あいかわらずまとまりませんが、低い音好きな方にお勧めのサントラということで、今日は書いて見ました。

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2006年9月 5日 (火)

3バカ大将。

デート映画、ってジャンルがありますよね。っていうか、私の中にはあるんですが。

すぐ浮かぶのは、バック・トゥー・ザ・フューチャーとか、グレムリンとか。あと、ローマの休日みたいな昔のアイドル映画なんかもいいですね。先日紹介したマルクス兄弟ものなんかも、そうかな。

罪もなく笑えて、1時間少々夢中になって、罪もなく笑えて、かわいい映画。

そんな映画の中で、私が偏愛しているものがあります。

『サボテン・ブラザース』原題"three amigos"

なにしろ、私が唯一持っているセルビデオですから。何回見たかなあ。

3人の映画俳優たちが、売れなくなって干されてしまいます。そんな時、彼らを本物のヒーローと勘違いしたヒロインが、「村を救って」と手紙を書きます。3人は「興行」の依頼と勘違い。ところが、その村に行ってみると、本当に悪漢に狙われていました。

というわけで、スティーヴ・マーチンたち俳優がどたばたあり、歌あり、ちょっと恋もあったりするという映画。
見た後、幸せになれること間違いなしです。

いかにもスタジオで作った感じの夕日。マカロニウエスタンでよく見る、典型的な悪漢。お約束の恋と、「ベタであることをよしとする」ちょっとひねった美意識に満ち満ちた映画です。

これも、今買うと高いです。廃盤なので、プレミアがついてしまっているんですね。
でも、昔の定番なので、図書館のAVコーナーなんかで見れたりするんですよね。

ちなみに、音楽担当はへんくつ王子のランディー・ニューマンです

アマゾンアソシエイトとうまく繋げず、画像が出せませんでした。
また時間があるときに修正しますが、今日はこれで、、、、。

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2006年7月 4日 (火)

叫ぶ花

お久しぶりです。
仕事がまた火をふいたり、そうこうするうち転勤が決まったりと、激動の2週間でした。


さて、
先日BSでやっていたこの映画。最高です。

”リトル ショップ オヴ ホラーズ”。
80年代の怪作ミュージカルです。
どこのレンタルショップでも安売り棚に置いてあるような、定番、かつあんまり注目されていない映画です。


花屋に勤める風采の上がらない男の子、シーモアは、同じ花屋に勤める女の子、オードリーに恋しています。でも、彼女の恋人はサディストの歯医者。シーモアは、彼女をなんとか助けたいと思っています。突如日蝕になったある日、シーモアは不思議な花を見つけます。それは、宇宙からきた、人の血を吸って大きくなる食人植物でした。シーモアは、愛するオードリーにちなんで”オードリーⅡ”と名づけます。

なんとなく先が読める感じの筋立てですが、ブラックコメディーというか、デートに見て盛り上がって帰れる映画です。バック・トゥー・ザ・フューチャーよりは少し毒がありますが、、、、。

何と言っても、曲がとても良く出来ています。モータウン的なブラックミュージックをベースに、パワフルな3人娘の唄で始まる導入部。「ある日シーモアが」(Suddenly seymour)という、ウエストサイド・ストーリーばりのデュエットソング。


そして、特に笑えるのは「ボクは歯医者」という、恐い恐い歯医者の歌。
歌詞の詳細までは今覚えていませんが、「小さい頃小動物を殺したりして遊んでいた危ない子供の天職は、みんなが恐がる歯医者だった」、という歌です。

"Say ahhhh!""Ahhhh"

なんていうコール&レスポンスもあったりして、楽曲の出来のよさはかなりのものです。

そういえば、このサディストの歯医者にマゾヒストの患者が訪ねるシーンがあります。歯科医はさんざん脅かすのですが、患者はそのたびにエクスタシーを感じて絶叫する、という珍シーンで、これも爆笑ものです。


さて、この映画を見たのは学生の頃なんですが、一番心に残ったのは、オードリーⅡ(食人植物です)のうたう歌。
最初はシーモアの指先のケガから滴る血で我慢していたオードリーⅡですが、だんだん大きくなるにつれ、人間が食べたくなってきます。
ここで、なんとオードリーⅡは、巨大な花弁を口にして、すごい迫力でシャウトするのです。

俺に生き血をくれよ、お腹がへってたまらない。
俺さえいれば、お前は有名人。
さあ生き血をくれよ。

てなぐあい。
これも、記憶で書いてますので歌詞がいいかげんですが。

こうして、オードリーⅡがシーモアに向かって人殺ししろと迫るシーンが、最高にワイルドで挑発的で、かっこいいのです。

映画のエンドロールをみると、オードリーⅡの声は、”フォートップス”というモータウン系コーラスグループのリードヴォーカリスト、リーヴァイ・スタップス。
早速、CDを入手していろいろ探してみましたが、映画のように思いっきりシャウトしている曲が意外にないのです。

たぶん、映画で食人植物を「演じる」ことで、ふだんの名ボーカリストとしての自制がふっとんでしまっているのでしょう。それほど、シャウトしまくりです。

で、いろいろ探した末にようやく発見した、割とシャウトしている曲は、
"Nature Planded It"というアルバムの一曲、"Walk With Me,Talk With Me, Darling"でした。
でもこれ、コンピには入っていないし、

うーん、中古で一万円超えかあ。30分強のアルバムなので、ずいぶん高値感があります。


私が持っているのは、"Keepers of the Castle"との2イン1で、2000円ぐらいで売っていたと思いましたが、今、入手が難しいということなんでしょうね。

余談ですが、一時、モータウンってすごい名盤の2イン1がやたら多く、たとえばマービンゲイのホワッツ・ゴーイン・オンとレッツ・ゲット・イット・オンが一緒に入っているアルバムなんてありました。
さすがに、これはもったいないと思ったんでしょうか、これほどのコンピは最近は見なくなりましたけど。

こういう曲こそ、ネットででも売って欲しいと思います。
あ、iTunesは見ていないので、もしかしたら、、、、。

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