書籍・雑誌

2010年4月30日 (金)

沢尻エリカ様と『ねじまき鳥クロニクル』と拒絶の物語

今日、ワイドショーで沢尻エリカさんの一連の離婚騒動を時系列で復習しているのを見ました。
私は、今もって「沢尻エリカさんってこんな顔してるんだ」、ぐらいの芸能オンチです。そんな私が、わざわざブログにまで書こうと思ったのは、なんとなく、「キモい」と夫の高城剛を拒んだエリカ様の発言に気になるところがあったからです。

芸能ニュースを聞いて私が最初に思ったのは、「これって、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』じゃん。」でした。
『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公の妻が全く予兆もなしに失踪します。やがて主人公のもとに義理の兄が代理人としてやってきて、「妹は、君には会いたくないといっている、離婚して欲しい」と言うのです。しかし、主人公は、「妻と直接話をするまでは離婚には応じられない」と、義兄をかたくなに拒みます。
義兄と主人公が妥協点を探るうち、結局、チャット(ちょっと昔に流行った、パソコンの画面を介したリアルタイムでのテキストのやりとりのこと。会話は文字だけで、顔も見えず、声もきこえません。なんだか時代を感じる小道具ですね)なら妻と話ができることになり、会話する。
小説では、この会話の場面が一つの山場になっています。妻の声もなく顔もないため、遠く離れた場所でパソコンのキーボードに向かっているのは本当に妻なのか、主人公は確証が持てません。文字で、二人だけしか知らない秘密を語られても、画面の向こうの相手が確かに妻だという確証が抱けないのです。まるで、チューリングテスト(被験者が文字だけで相手と会話し、その会話だけで相手が生身の人間か、パソコンかを見分ける実験。原理的には見分けられないとされる)のような状況ですね。
これに先立つ妻からの手紙で、妻は、画面越しに結婚後の浮気を告白しています。そして、そのいくつかの状況証拠は、主人公にも思い当たるところがあるものでした。
パソコンでの会話は、そのだめ押しとなって、主人公は画面の向こうの妻の言葉を信じ始めます。だとすれば、妻の主人公への裏切りはずいぶん前から続いており、失踪も計画的なものだったということになります。

エリカ様の場合も状況はとても似ていて、夫の高城剛さんは、直前まで妻が離婚を考えていることすら気がつかなかったそうです。
しかし、ある日突然、エリカ様へは電話もメールも通じなくなる。そして、一方的にウエブを使っての一方的な離婚告知があり、彼のもとにエリカ様の兄が現れ、妹が離婚したいといっている、と交渉を始める。
芸能リポーター氏の話によれば、沢尻エリカさんのほうは、事務所との契約など、復帰後のレールをこっそり敷いた上での、計画的な離婚発表だったことがわかってきた、ということなのです。
なんだか、主人公の男性と妻とのディスコミュニケーション具合がとても似てると思いませんか。

話は飛びますが、2,3日前にスポーツ新聞の表紙に「キモい」と大書してあって、何のことかと思ったら、エリカ様が高城剛さんを「キモい」と言ったという報道でした。たまたま同僚の妙齢の女性と食事していたときだったので、その「キモい」の話になりました。
彼女によれば、女性はいくら大好きな相手でも、突然全てが許せなくなってしまっていることがあるというのです。そうなってしまうと、今まではなんとも思っていなかったちょっとしたしぐさやクセが鼻について許せないものになってしまう。そういう気持ちを「キモい」というのだけれど、そうなってしまった後では、相手に「なぜキモいと思うの?」「君の前でやらないように気をつけるから、何がキモいのか教えて」と、問い詰められること自体が「キモい」というのです。
「キモい」と言う時は、言っている本人にも明確に理由がわかっているわけではないのです。分かっていれば、まだ関係を修復する余地もあるでしょう。
そうではなくて、「キモい」とは、「生理的になんとなく不快なんだけど、それがなぜか突き詰めると本当に不快になってしまうから、深く考えずに目をそらしている」という時にいう言葉なのです。「キモい」という場合には、「理由を考えたくない」。そして、その先にはコミュニケーション拒否の深い谷が広がっていて、関係を修復するすべはないのです。

『ねじまき鳥クロニクル』の妻とのチャットのシーンでは、主人公が妻に執拗に「離婚したいと思う訳」を聞こうとし、妻は執拗にはぐらかす、という図式でした。

しかし、様々な秘密を明らかにした妻が、たった一つ明らかにしなかった秘密、それは「夫をキモく感じた」ということだったのでしょう。エリカ様を見る限り。

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2010年4月18日 (日)

いくつかの「もし」 ~1Q84 ing なう~

「1Q84 ing なう」 。

ご無沙汰です。

村上春樹の新刊の話題ですが、後半はネタバレありますので、未読の方はご注意ください。
改行はしてありますけど、、、、、。


さて、なんだか売り切れている書店もあるらしい、村上春樹の『1Q84 Book3』。
昨日ちらりと覗いた書店では平積みの山積みが残っていたので、地方書店では売り切れの心配は要らないのかもしれませんね。
とりあえず、昨日読み終わりました。


読み終えて、まずはTwitterを覗いてみました。(Twitter、最近ようやく始めたのです。)読んでいる間は、ネタバレするのが嫌であえて検索を我慢していたんですが、"1Q84"を検索すると、予想通り、「読了」「お風呂で○章まで読了」とか、「○書店完売」とか、さまざまな呟きが飛び交っていました。
(ちなみに、内容をネタばらしするような書き込みはほとんどなかったけど、一部「読書ノート」的に使っている人もいるので、未読の方はTwitterは覗かない方が賢明です。)

これを見て思ったのは、意外にツイッターをやりながら読み進める人が多いんだな、ということでした。Twitterの共時感覚は、「同じ本を一斉に読む」というイベントにすごく向いているようです。読み終わっての感想だけでなく、書店に行ったけど買えなかった人、途中まで読み進めた人、眠くて中断する人、、、、、それぞれが、各自の生活時間の中で、それぞれの形で同じ本に関わっている、というのがわかるのがおもしろいのかもしれません。


これがTVとなると、ツイッターとの連動の可能性は大変なものがあると思います。たとえば、ちょっと前に話題になった、NHKスペシャルとU-STREAMの同時放送。簡単に言うと、地上波での生放送のウラで、ネットでも生放送をする、というものです。、、、、これでは簡単すぎでわけがわからないですね(笑)。
最近は、ネットで、個人的に動画を配信する技術がすごく進んでいて(中には自分の部屋から日常生活を生中継する人までいます)、その一つがU-STREAM。ここを利用して、NHKの生放送を見ながら、ネットの有名人(ホリエモンさんなど)があーだこーだ言う、というNHKの「裏番組」を、作っちゃったのです。カメラは1台で、ほとんど固定カメラですから、たぶん裏方さんも最小限の人数で安く作っていると思います。
いわば、「メタ番組」を作るわけですね。
この「裏番組」には、NHKの番組の映像も音声も一切出ないので、著作権的な問題は全くありません。見る側は、テレビをつけながら、パソコンの動画配信を見ることになります。

ついでに言えば、NHKスペシャルの内容についても、U-STREAMについても、別々にTwitterされていましたので、「テレビ」「パソコン動画」「テレビについてのツイッター」「裏番組についてのツイッター」を同時に見るという、見る側にとってはすごく大変な、聖徳太子風の視聴スタイルでした。私も、どっちかを追えばどっちかがお留守になってしまうので、みんなテキトーにしか見聞きできなかったのですが、、、、、

でも、面白かった!
例えば、今後は、オリンピックの生放送を見ながら、そのウラ舞台を知るOBが、言いたい放題の放送をウラでやったり、、、。このアイディア、裾野がすごく広いのです。放送であれば流せないような罵詈雑言も飛び交ったりしたので、かなりの悪評も買ったようでしたが、私にはものすごく画期的なフォーマットに見えました。


一方、本の場合は、読み進める速度がみんな違うのでテレビほどの完全な共時性が楽しめません。このへん、古いメディアというよりは、テレビにはない強烈な個性を持っていると言ったほうがいいでしょう。
活字を手にしていると、たとえ何十万人が同時に同じ本を手にしていようとも、読みながら立ち上がる世界は人それぞれ違うのだ、ということが強烈に感じられるのです。

さて、ここからはネタバレの話が始まるので、未読の方はこのへんで。10ほど数を数えておきます。









10


11

12

13


14

ちょっと数えすぎてしまいましたが。
まあ、このへんで大丈夫でしょうか。。。。。

村上春樹が今回のBook3を書いたのは、牛河という典型的な俗物に「魂を入れる」つまり、「きちんと心を与えてやる」ためだったのではないかと思っています。村上さんの関心は、どんどん「俗」を自分の世界に取り込む方向に向かっているようですが、その流れの一環として。


こんなことを思ったのは、『1Q84』の中で、唐突に「我々」ということばが登場したのがひっかかっていたからです。

小説中の地の文で、唐突にこんなフレーズが入ります。

「ここでいくつかの「もし」が我々の頭に浮かぶ。もしタマルが話をもう少し短く切り上げていたなら・・・(以下略)」
(『1Q84 Book3』 p339より引用)

「我々」?

文脈から見れば、「我々」というのは、作者と読者を指すと思われます。しかし、こんなところで作者が読者によびかけるというのは、かなり唐突で掟破りな手法です。

私は、まず、いくつかの映画を思い出しました。
ゴダールの映画で、「俳優がカメラ目線で観客に語りかける」ものがありましたね。
そのほか、いくつかのギャグ映画や、ドリフターズの『全員集合』でも、よく見たような気がします。
また、『フランケンシュタイン』の映画の冒頭には、作者が登場して、「これは物語なので動揺しないように」と観客に語りかけるシーンがありました。
また、この映画はエリセの『ミツバチのささやき』にも引用されていました。

(後記; 『フランケンシュタイン』では、作者がビロードのような幕(たぶん映画館の暗幕のイメージ)から作者が登場し、ひとしきり語った後幕の中に引っ込み、それから物語が始まる、という段取りを踏んでいるので、映画の始まる前の作者解説に類するといえなくもなく、ぎりぎり物語のフレームは守られているといえます。ここで取り上げる例としてはちょっとふさわしくなかったかな??)

この演出は、スクリーンの内と外の垣根を取っ払ってしまう効果があります。普段は、物語を蚊帳の外で見ている観客に対して、物語のほうから、現実に侵食し始めるわけですから、見る側にはかなりのインパクトです。でも、効果が強すぎるので、一種飛び道具的でキワモノっぽい演出にみえかねない危険をはらんでいます。
村上春樹がここでやっていることは、この活字版です。

しかし、『1Q84』での手法は、地の文の中にさりげなく置かれ、その技法のインパクトを強調することなく、さりげなくフェードアウトし2度と登場しないというのが、とてもフシギです。私には正直かなりの違和感がありました。それならそうと、技法を「立てて」書いてくれれば、狙ってやっているのだと安心できるのですが、この場合、そうではない。「我々」は、さりげなく登場し、その後登場しないのですから。

ふと連想するのは、『アフターダーク』で、用いられた、俯瞰カメラからの視線のような記述ですが、あの時はあざとく、何度も使われていました。つまり、この「あざとくなく」「さりげなく」使われているということ、「我々」に村上春樹が込めた意図を読み解く上での核心のような気がします。


こうして、問題が見えてきました。

村上春樹は、この掟破りの「我々」を、しかも「さりげなく」書いてしまうことで、何を狙ったのでしょう。

今日は時間切れで、牛河の問題までいけませんでした。いずれ続きを書きたいと思います。

直感的には、物語がさりげなく現実に侵食してくる感じ、この感じが大事なのではないでしょうか。「壁と卵」の話での小説家の社会参加とか、村上春樹がアクティブに社会に関わっていこうとする姿勢と、つながっている気はします。

とりあえず、月が3つになってなくてよかったですね。
ではまた。

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2009年6月21日 (日)

双つの乳房と双つの月~『1Q84』の「物語る力」~

村上春樹の分析本の定番として、本に付箋を貼って、日付などが持つ意味を読み解く、というものがあります。
それも読むと面白くて、堪能させてもらっているのですが。

分析本はたくさんあるのですが、例えば『ねじまき鳥の探し方』なんて、面白いです。


でも、そういう読み方とはまた別に、彼の小説には、リニアに、つまり愚直に1ページずつ読み進めることの楽しさにもあふれています。

今日はこの楽しさについて書いてみようと思います、、、、、、、と、書きながら思ったんですが、私は、あまりにも当たり前のことを書こうとしてるのでは??
うーん、その可能性もかなり高いなあ。

まあ、とりあえず、書きすすめてみます。


物語の冒頭、ヒロイン青豆は、自分が今までとは別の世界に来てしまったことに気がつきます。
そこは、武装集団と警察との銃撃戦があり、NHKの集金人は支払いを拒否した大学生を包丁で刺す、ちょっと暴力的な世界でした。

そして、この世界には二つの月が浮かんでいます。
(緑色でゆがんだ月は、緑の月=青豆という連想や、青豆の左右で大きさの違う乳房を連想させます。)
が、これこそ、青豆が別の世界に入り込んでしまった象徴なのです。

読者は、こんなふうに考えるでしょう。
青豆が別の世界に入ってしまった事はわかった。
次に気になるのは、青豆の恋人(となるべき)天吾はどこの世界にいるのだろう、ということだ。

なぜなら、天吾と青豆が同じ世界にいないとなれば、二人の出会いの可能性は大きく下がってしまうからです。
つまり、読者は、天吾には月が二つに見えるのか、ということがものすごく気になってくるのです。


ところが、ここでまた、村上春樹は、私たちをじらします。
小説中の小説、『空気さなぎ』では、「空気さなぎができるとき月は二つになる」(Book1 309)、と描かれています。
ということは、この小説がベストセラーになる世界では、「月は一つだけ」という常識が共有されているのです。

天吾の生きる世界では、みんなは一つの月しか見えていない。
だからといって、天吾には二つ見えている、ということもあるんだろうけど、、、、、その可能性は低くなった(ように見える)。

そして、さらに後半に、青豆が『空気さなぎ』の本を読み始めるに至って、いよいよ読者は、二人の暮らす世界の位置関係はどうなっているんだろう、と幻惑されるしくみになっています。


村上春樹がよく使うテクニックなのですが、
「これってAなのかBなのか、どっちなんだろう」
と読み手が思っていると、突然の一行で、謎が深まったり、明確に解けたりする瞬間が気持ちいのです。


今までのところを少し整理してみます。

物語をアタマから読んでいる過程では、天吾がいる世界は青豆と同じ「1Q84」の世界なのか、かなり先まではっきりしません。
なにしろ、天吾は、大規模な銃撃戦についても、ぼんやりと記憶にある気がする、という程度なのです。
もしかしたら、天吾は1984に留まっているのか、それともさらに別の世界に行ってしまっているのかもしれません。
でも、違う世界であれば、そもそも青豆とは会えません。そんなわけで、天吾がいる世界がどこなのか、は、天吾が月を発見するまでは、物語上の巨大な推進力になっています。


これが判るのは、Book2のp394まで待たなければならない。2冊目も4分の3を越えたあたりで、ようやく天吾は月を見ます。
ここで彼が見るのは、二つの月でした。

「月は相変わらず寡黙だった。しかしもう孤独ではない。」
ここでようやく、緑色の月=青豆と、黄色い月=天吾が、よりそっていることがわかるのです。


引っ張りましたね、ハルキさん。

でも、待っていたがゆえの、じんわりと感動的な瞬間です。
やっぱり二人は同じ世界で求め合っていたのだな、という。


---

さて。

この小説の続編があるのか、については、いろいろな意見が言われています。
しかし、私は、続編はないのではないか、という気になってきました。

まずは、この『1Q84』、バッハの平均律クラヴィーアの、2冊各24曲を模した構成になっています。
そして、バッハには"well-tempered clavier, book.3"は存在しません。
もう一冊書くことは、この均衡を破ることになるのです。


そして、続編がないと考えるもう一つの理由は。

小説の本当におわりあたり(Book 2 p498)に、天吾が、空気さなぎのなかの少女に、「青豆」と呼びかける場面があります。
この場面、時間的には青豆が拳銃をくわえた日の夜です。

天吾の呼びかけを、
「青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする」。

私は、この一行で、どんなタフなことがあったにせよ、青豆はこの世界のどこかで生きているんだ、と思いました。

こうして二人のことには決着がついているのだから、もうこの先に続編をつける必要がないのではないか、と思うのです。


さて。
今、気になっているのが、猫の街とは何か、です。
それは、以下の二つのシーンの強い共通性がヒントになっています。

まず、天吾とふかえりが交わる(ふかえり曰く猫の街に行ったことの「おはらい」をする)シーン(Book2 p304)。

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「口は軽く半開きになり、唇がさざ波のように微かに動いているのが見える。それは何かの言葉を形作ろうと中を模索していた。」
(中略)
「テンゴくん」とふかえりは行った。
---

そして、青豆が拳銃を口にくわえるシーン(Book2 p473)で、青豆が「天上のお方さま」といつもの祈りを捧げ、そして「天吾くん」と青豆が言う場面。

この二つのシーンの関連について考えてみると、何か見えてくるのでは、という気がしています。


追伸

今、私が見ているNHKのテレビは、夏至のキャンドルナイト特集をやっています。電力を使わないようにするんだったら、そんなテレビ番組を作るのって、かなり、そのスタート地点から矛盾してる。。。。。
でも、このTV、スタジオが生で展開している(=同じ時間を共有している)という事実が、妙に私を惹きつけるのです。

村上春樹の本も、矛盾している事で有名(?)ですが、、、、、

まあ、いいんですよ、矛盾していても。

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2009年6月10日 (水)

発射されない拳銃 ~異形のメタ小説『1Q84』~

村上春樹の『海辺のカフカ』には、超能力を持つ老人「ナカタさん」が、ヒルや魚の雨を降らせるシーンが登場します。
昨日、まさにそのシーンを読んでいたのですが、今日は新聞でこんな記事を読みました。


asahi.comより「空からオタマジャクシが降ってきた? 石川県で相次ぐ

空から魚が降ってくることは時々は起こることのようですが、(Google検索”空から魚が”)、それにしてもねえ。

記事を読んだとき、現実とフィクションの境目が少しばかり薄くなった気がして、頭がクラクラしました。
。。。。。。。。
どうやら、世界は日増しにハルキ化しているようです。

(「ハルキ化」とは、「明らかに何かの象徴らしい不思議な事が起こるが、それが何を象徴しているのは明かされないこと、その度合いが強まること」ということにしときましょう。)

---

前回、前々回と『1Q84』について書いたあと、頭の中で寝かせている間に、なんとなく解ってきたことがあります。


「解決しない謎が頻発する」というのは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』あたりから顕著になってきた特徴です。
そして、最近になるほど、村上春樹は確信犯的に、「解決しない謎」を振りまくようになっているような気がします。

これ、「登場した拳銃は発射されなければいけない」という従来のドラマツルギーに照らしていえば、かなり異様なことです。
でも、それに対しての村上春樹の回答は、「拳銃は発射されないこともある、その方がドラマチックなら」、でした。

そして、読者も、たくさんの発射されない拳銃を見ながらも(そして時々は文句をいいながらも)、きっちり村上春樹についていっているわけで、ということは、村上は、新しい小説のスタイル、というかコンセプトというか、を確立させはじめているのでしょう。

では、どんな拳銃は発射され、どんな拳銃は発射されないのでしょうか?これが私にはわかりません。
でも、村上春樹は、確かに二種類の拳銃を使い分けて物語を進めているようです。

これって、前衛的な絵を見る時に、「作者はなぜここで完成だと思ったんだろう」と思うのと似ています。
もっと塗り重ねてもいいし、逆に、キャンパスが白地のまま残っていてもよかった。でも、作者は、どこかの時点で、「ここで完成」と線を引いている。
でも、その「完成した」という確信は、どこからなぜ生まれてくるんだろうか。


さらにいえば、続編の『book3』が出るか出ないか判断できないのは、村上春樹の小説の、この特異性によるものです。
『book 2』で終わってもアリ、終わらなくてもアリ、ということを、私たち読者は既に『ねじまき鳥クロニクル』を通過して学んでしまっていますからね。


---
さて。

以前、村上春樹は、自分の小説に「解決しない謎が多すぎる」ことについて、こう答えています。
「僕ら小説家の仕事はうまい回答を出すことよりは、むしろ優れた設問を提出する事にあります。」
(読者とのメール書簡集『少年カフカ』p52より)

さらに、『1Q84』の中でも、村上小説を読む上での「ゲームの規則」についてくりかえし書いています。
それは、「疑問の答えを探す事は重要ではない。疑問を疑問のままで抱えながら、考え続ける力を持つことが大切だ」、というものです。
(すいません、本文から引用したかったのですが探し切れない、、、)


ここまで考えて、『1Q84』とは、村上春樹が「小説を書くこと/読むこと」の意味を考えつつ、その考える過程自体を小説に取り込んだ、究極の「メタ小説」(小説についての小説)ではないかと思いました。

村上春樹は、

なぜ自分が書く小説には謎が頻発するのだろう。
なぜ、自分は沢山の謎を未解決のまま積み残している小説が「完結した」と思えるのだろう。

、、、そんな疑問を、読者と同じ立ち位置で悩みながら、新たな作品を紡いでいるように見えるのです。

『1Q84』は「優れた設問」に満ち満ちているので、今のところ消化不良になっていますが、逆に言えばこれこそ再読する条件。
時間をおいて、ゆっくりと何度も読んでいく楽しみと、意味があると思います。

追伸

「登場した拳銃は発射されなくてもいい」。
となると、、、、思い出すのはラストシーンの拳銃。

登場の場面から、熱烈な枝豆青豆ファンになってしまったので
(ならない人がいるだろうか?)いよいよ続編に期待が高まります。


さらに追伸

パシヴァ(知覚するもの)と、レシヴァ(受け入れるもの)の関係は、翻訳においての作者と翻訳者を思わせます。
つまり、この小説には、翻訳者・村上春樹の翻訳感も描かれているのだと思います。
このへんも「『1Q84』はメタ小説である」という考えが浮かんだ所以ですが、これは上記の話とはあまりにも筋が違うので、またいつか。


最後に、「参考」。

asahi.comの記事「空からオタマジャクシが降ってきた? 石川県で相次ぐ」より

----(以下引用)------

空からオタマジャクシが降ってきた? 石川県で相次ぐ

2009年6月9日12時0分

 空からたくさんのオタマジャクシが降ってくる「珍事」が今月に入って石川県内で相次いでいる。竜巻に巻き上げられた魚などが地上に落ちてくる現象は知られているが、当時は竜巻が発生しやすい状況ではなかった。鳥が運んだ可能性も低そうで、原因はわかっていない。

 最初に確認されたのは4日午後4時半ごろ。七尾市中島町の市中島市民センターによると、センターの駐車場にいた男性職員が「ボタッ、ボタッ」という鈍い音を聞いた。振り返ると、車の上や地面に体長2~3センチのオタマジャクシが大量に落ちていた。

 センター内にいた同市職員の舟倉究(きわむ)さん(36)が見に行くと、自分の車の天井やガラスなどにオタマジャクシ約10匹がへばりつき、周囲で100匹ほどが死んでいた。高いところからオタマジャクシをばらまけるような場所は辺りになく、「空から落ちてきたとしか思えない」。8日午前8時ごろには、センターの西約4キロにある七尾市議宅の玄関付近にもオタマジャクシ5匹が落ちていたという。

 七尾市中島町から約80キロ離れた白山市徳丸町。石川信子さん(75)は6日午前7時半ごろ、「オタマジャクシが落ちている」と近所の人が話すのを聞いて外に出た。長女(47)の車のボンネットの上で体長約3センチの5~6匹がつぶれ、周囲にも30匹前後が落ちていた。「この地に40年近く住んでいるが初めてのこと」と不思議そうに話した。

 金沢地方気象台によると、オタマジャクシが見つかった日時場所の大気状態は安定し、竜巻が起こる条件ではなかったという。いしかわ動物園(能美市)によると、サギやカモなどがオタマジャクシを食べることはあるが、「100匹以上を一斉に同じ場所に落とすとは考えられない」という。

----(引用おわり)------

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2009年6月 6日 (土)

ジャムってる。~『1Q84』を読了して~(ネタバレあり)

"jam"という言葉。
ジャズなんかでは、即興演奏を一緒にすることですが、「群がる」、とか、「ギュウギュウづめになる」、という意味もあります。
コピー機の中に紙が詰まって、出てこない状態も、「ジャムる」って言いますね。

「頭の中がジャムってる。」
まさに、今の私の気分にぴったりです。
言いたいことは沢山ある「ような気がする」んだけど、未整理で、言葉にならない感じ。
(でも、言葉にならないということはまだ掴んでない、わかってない、んだよな。)


さて、先日本を買う前に、いつもの喫茶店に行って、マスターに村上春樹の新作が出たという話をしました。
そういうこともあって、昨日また喫茶店に行ったとき、「どうでしたか?」と聞かれました。
うーん、と困って、「読み始めたら止まらなくなりますよ。でも、かなり挑発的な小説かもしれません」と、わかったようなわからないようなことを答えてお茶を濁してしまいました。

そんな濁った頭を抱えたまま、まだ読み返す気にもなれずに、机の上に寝かせています。

そうしていると、心のどこかで引っかかっていたけど、読んだときには自分でもそれと気がつかなかったことが、ふっと頭をもたげてきます。
まだ断片なのですが、それをちょっと言葉にしてみようかと、思い立ちました。


「天吾」という名前のこと。

"yo la tengo"ヨ・ラ・テンゴというバンドがあります。

静かなる前衛、という感じで、ゆがんだ轟音ギターに美しいメロディ。
小さな音で聞くと、とても沁みます。
表面は静かな河だけど、その川底は深くてひんやりしていて、見えない深みではずいぶん多くの水が流れている、そんなバンド。
これとテンゴの名前は、関係あるのだろうか。

もう一つ、天吾くんがらみですが、なぜ村上作品に登場する性描写って、男性がいつも受身なのだろう、と思います。
シャーマン的な一面を持った女性に導かれて関係を持ってしまうことがとても多い。
今回は、その受身度がたぶん5割ぐらいは増していて、(理由はわからないけど)体がしびれて動かないという状態でのセックスという。。。。なんだか言い訳じみていて、ちょっと引っかかる、というか、あんまり好きになれないシーンでした。
なぜ、こんなふうに、自分の意思でなく関係を結んだことが強調されるんだろう。


最後にもう一つ気になったのが、「損なわれる」という言葉の使い方です。

今までの村上春樹の小説でも、「損なう」「損なわれる」という言い方は出てきました。特に、『ねじまき鳥クロニクル』での使い方は、とても印象に残るものでした。
「傷つく」とか「気がふれる」とか、そういう他の表現には回収できない、なにかとても特別で悲劇的で、不安定な状態を「損なう」という言葉で表していたように思います。

『1Q84』でも天悟の恋人の夫からの電話で、恋人が「損なわれた」ことを告げられます。
でも、ここで感じるのは、今までの不吉な得体も知れない状況ではなく、、、、、なんて表現すればいいんだろう、絶対的で安定した状態のように感じるのです。
なぜこう思ったのだろう。でも、前のブログで書いた、混沌が「わかりやすい混沌」になってきている、という印象の原因の一つは、たぶんこれです。

さて、
『1Q84』、売切れが続出したりして、またニュースネタになっているようです。
情報を全く出さないという販売戦略が当たった、というのはそうなのでしょうが、これだけたくさんの人が村上春樹を求めたというのは、何か深いところで村上春樹が描くものが、深いところでゆっくり共有されてきた、地殻変動の証みたいなものなのかも、とぼんやりと思っています。

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2009年5月31日 (日)

「喧嘩上等」 by 村上春樹 ~『1Q84』の挑発~

村上春樹の『1Q84』読了しました。

二日掛かりましたが、仕事の移動中とかも含め、寸暇を惜しんで読み進めました。
相変わらずのページターナーぶりで、一旦読み始めたら本が置けません。

さて。
以下はストーリーには触れませんが、読み方によってはネタバレになると思います。ご注意ください。

この本、面白いし、読む価値はバッチリあります。
が、読んで癒されたり、心静かになる類の本でないことは、とても確かです。
いや、逆に、かなり論争的です。

あえて言いますが、「喧嘩上等」な感じ。

そうだ、ここでもう一度繰り返しておきましょう。

ここではストーリーには触れませんが、
小説に登場する団体や人についてコメントするので、まっさらで向かい合うためには、読まないでください。

きっと、読まないほうが衝撃度は高いと思いますので。

---

さて。

読んで真っ先に思ったこと。それは、村上春樹、今回はかなりケンカごしだな、ということです。
かなり確信犯的に論争を起こそうとしているんじゃないでしょうか。

それは、ノーベル賞に最も近い作家、という自分の立場で何ができるか、を真剣に考えた末の行動のように思います。

子ども連れで布教する、「証人会」という宗教団体の名前は、「エホバの証人」を想起させます。
村上春樹は、小説中で、「証人会」を「カルト」と形容しています。
(1984年の日本で「カルト」と言って通じたかはともかく。)

そのほかにも、ヤマギシ会を思わせる、有機農業を売り物にしたコミューン的な農業集団が登場します。
ここは、やがてオウムを思わせるカルト宗教団体に変貌していきます。

あと、NHKは実名で登場しますが、ある種の「カルト」として登場していますね。


(本筋とはそれますが、登場する編集者の小松は名物編集者ヤスケンを想像させます。
村上春樹の生原稿を売り飛ばした(らしい)、安原顕です。
文芸誌の編集者で、雑誌に自分のコラムを持って他人の悪口を書きまくっているところとか、でもその裏には冷徹な計算があるところとか、でも小説を愛しているところとか、そっくりヤスケンのイメージです。
違うところは、小松の服が地味なところぐらい。
これは、どういう意図なのか気になるところです。)


さて。

小説は、題名の『1Q84』にふさわしく、ジョージ・オーウェルの小説『1984』とも深くリンクしていますが、私が当初考えていたような、現代社会(=巨大な管理社会)の批判、という面よりは、より小さな団体の中で起こる「考える事の放棄」「都合のいい歴史の改ざん」が主題のように感じます。


たとえば。
オーウェルの『1984』には、「ニュー・スピーク」という新しい言語が登場します。
これは、「革命」だとか、「異議申し立て」だとか、とにかく権力者に都合の悪い単語を排除した言語です。
言葉さえなくなれば(=歴史さえ書き換えれば)それはなかったことになり、人々もそれについて考えることがなくなる、という考え方から作り出された言語です。

そうした、意識的な歴史改ざんが、村上の『1Q84』では、登場する様々な団体の中で起こっています。
(そして村上は、それは現実の団体の中でも起こっているのだ、と言いたいのだと思います。)

---
ああそうだ、最後にもう一つ。

『ねじまき鳥クロニクル』~『海辺のカフカ』あたりでピークに達した、解決しないナゾが、『1Q84』にも頻出します。
でも、なぜか、今までの混沌とはちょっと性質の違う、いわば「秩序ある混沌」(言語矛盾ですが)を感じるのです。

今後また読み返し、深く読み込んでいくことで、この混沌がどうみえてくるのか、楽しみです。
意外に、今までの混沌より、理屈が立つ混沌のような気も、するのですが。
結局名前だけで登場しなかった少女、「あざみ」も含めて、このままお話は終わってくれてもいい。

でも、ムラカミファンとしては、『ねじまき鳥』のように、後になって「BOOK3」が登場するほうに賭けたいです。

まあ、そういうわけで面白いのではありますが、今までの小説にはない、「攻撃性」を強く感じるのです。
是非何度でもお楽しみください、ダーク サイド オヴ ハルキ ムラカミを。

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追記

私は、今までのブログでは「村上さん」と書いてきましたが、
今回は呼び捨てにしました。
どうやら今回はこの方がしっくりくるようです。なぜか。

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2009年4月 4日 (土)

あなたも見られている "Someone To Watch Over Me"

ジェフリー・ディーヴァーの新作、「ブロークン・ウインドウ」をようやく読み終えました。辞書を引き引き。

今回の犯人は、個人情報を自在に入手できるというつわもの。

ある人がどんな芸術を好み、ホームセンターで何を買い、どんなスナック菓子を食べたか、、、、そんな些細な事実を縦横に使って、人を殺し、無実の人を犯人に仕立て上げます。
そして、さらには、その個人情報を書きかえ、遊び半分に人を破滅に陥れる。。。。
いつものの証拠捜査で追い詰めるライムにも、やがて危機が訪れます。

今回も、ライムの従兄弟との関係や、「新米」というあだなの警官との擬似父子関係など、シリーズものを読む楽しみを存分に満足させてくれています。


でも、それ以上に興味深いのが、アメリカの情報産業の恐ろしさです。
小説で描かれる巨大情報企業は、いかにもありそうです。
個人の些細な情報を集積すれば、詳細な個人のプライバシーが見えてくる。そして、それがいかに儲かり、そして国の治安の問題ともからんで、巨大な権力となりうるのか。


タイトルにもなっている"broken window"(割れ窓理論)とは、窓一つ割れていない都市には抑止力が働いて犯罪が起こらなくなる、という理論です。これは、監視、管理を徹底すれば犯罪は起こらない、という考え方で、一瞬うなづきそうになりますが、それを認めることは超・管理社会へのプレリュードでもあります。

911以降の情報産業のありようとして、国家の安全管理とくっつくのは非常にありそうな展開ですし。背筋が寒くなります。


現代のプライバシーとは、という今回の大テーマを象徴するのが、小説冒頭に引用されているロバート・オハローの「逃げ道なし」の一節です。

「プライバシーの侵害は、大概の場合、大規模な漏洩ではなく、むしろ小さな事実の公開によって起こる。ミツバチと同様、一匹は取るに足らないが、群れなら死に至るのだ」

オハローは、アメリカの個人情報分析ビジネスについてのノンフィクションを書いた人らしいです。


さて、本の最後の、「ありがとうリスト」では、「クルー」として、おおぜいのスタッフの名前が載っています。
どうやら、この「リンカーン・ライム」シリーズ、チーム取材で、膨大なディテールを積み重ねながら書いているようで、小説の随所に、(おそらく事実の)ぞっとするようなエピソードがたびたび提示されます。
なんか、ゴルゴ13を描くさいとうたかをを連想してしまいました。

ラスト、犯人が情報をどうして入手したか、という謎解きにはちょっとムリがあるのでは、と思います。ただ、そういうムリでもなければ小説にならないわけで。

「情報化社会に警鐘を鳴らす!」、というと陳腐ですが、普段の自分の生活パターンで、情報を漏らしていないかな、なんて反省もする、教育的意味もある小説でありました。

内容的にはいつものジェットコースター。損はしません。


ところで、このネタと関連あるようなないような、、、、、

村上春樹の新作、タイトルは”1Q84”と発表されました。
ジョージ・オーウェルの1984とかけているなら、これまた管理社会の物語なのでしょうか。
5月発売、なんと2000枚の大長編だそうです。

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2006年10月13日 (金)

漱石のアロマセラピー

最近、『携帯書房』にはまっています。
携帯電話で本を読むサービスなのですが、通信費以外は無料で、古今の著作権切れ作品が読み放題!

実は、すぐに飽きるだろうと高を括っていたんですが、夏目漱石の『坑夫』、ポーの『アッシャー家の崩壊』と読み進むうちに、携帯電話で読む楽しみにすっかりはまってはや三月。電車の中など、ちょっと時間ができたときに、気がつくと読んでいます。

今、夏目漱石の『それから』を読んでいるのですが、あらためて読むと、面白いです。本と携帯というメディアの違いか、古典を読んでいる感覚がないのです。新作を読むように新鮮な気持ちで読めます。

そんな風に読んでいて、面白かったこと。

「全然いい」と言う台詞があります。全然+肯定は、今では「問題な日本語」などと言われかねない表現ですが、明治には普通だったんですね。

ちなみに、主人公の大介は、家柄がよくて、三十を過ぎても仕事をせずに親にお金をもらっている高等遊民。ピアノもサラっと弾けたりする。昔は全然気にもなりませんでしたが、結構頭でっかちで変なやつです。
この大介が、親に結婚しろと迫られて、それがプレッシャーで不眠症になる場面があります。
そういう時、大介は枕もとに香の甘すぎない花を置いて、その香りに癒されてようやく眠りにつくのです。その時の花は、友人が北海道からとって来てくれた『リリー、オフ、ゼ、ワ゛レー』という花。
どんな花なんでしょう。
神経症だったという漱石のことだから、ほんとにやって癒されたことがあったんでしょうね。

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2006年8月13日 (日)

暗闇のスキャナー

以前は「暗闇のスキャナー」という邦題で出ていた、フィリップ・K・ディックのSF小説です。

ディックの小説は、シチュエーションはSFなのに、小説自体のテーマは哲学的な思索小説の色合いが強いものが多いのですが、この小説も、「リアリティ」とは何か、がテーマの、一種の「哲学小説」。

物質Dという未来の麻薬を探るため、身分を隠して潜入操作中の麻薬捜査官が主人公。
薬物に次第にはまりはじめた主人公は、上司に、自分が演じている中毒患者を監視するよう命じられ、自分で自分を監視する羽目に。やがて、自我の境界線が揺らいでゆく、、、、というお話です。

やがて、クスリでぼろぼろになってしまった主人公。
その「恋人」らしき女が、彼を病院に送り込んだ時に聞く音楽が、これでした。

キャロル・キングの71年の作品、「つづれおり」です。

名曲ぞろいのこのアルバムの中で、「スキャナー・ダークリー」に登場するのは、タイトル曲ながら比較的知名度が低い「つづれおり(tapestry)」です。

ディックとキャロル・キング??
なかなか腑に落ちない組み合わせでしたが、歌詞を読み込むと、実はそうではないことがわかりました。


つづれ織り

私の人生は鮮やかで高貴な色合いのつづれ織り
変わり続ける景色、終わりのない眺め
青と金色の不思議な織りの魔法
つづれ織りは、見て触ることはできても、
留めることはできない

昔、空に漂う柔らかく銀色の哀しみの中から
運命の男がやってきた
彼は通りすがりの流れ者
鞭打たれた素肌に穴だらけのぼろを着て
両端が黄色と緑の、色とりどりのコートをまとっていた

彼の動きはおぼつかなくて、
まるでなぜ彼がここにいるのか、どこへ行くべきか
わからないと言いたげだった
一度、木に成っていた金色のものに手を伸ばしたけれど
何も取らずに手をおろした

すぐに、私のつづれ織りの中の、わだちだらけの道の脇で
彼は川辺の石に腰掛けていた
そして彼はヒキガエルに変わった
誰かの邪悪な呪いに落ちてしまったのだろう
私は彼の苦しみを見て泣いた
彼のことはよく知らなかったけれど

私が悲しみながら見つめていると、突然、
豊かなあごひげに隠された
灰色で、お化けのような姿が現れた

深い深い暗闇の中で、
黒い服を着た彼を見た

ここで私のつづれ織りはほどけ始めた
彼が私を連れ戻しにやってくる、
私を連れ戻しにやってくる


、、、、、、、、、。

思わず全部訳してしまいました。


「スキャナー」では、主人公の恋人らしき女性、実は彼女も潜入捜査官だったというオチがつきます。
それでもやはり、彼女が、麻薬でぼろぼろになってしまった主人公を思うというシーンに流れる曲がこれ。「ヒキガエルになってしまった男」の歌はあまりにも状況にぴったりだとおもいます。


しかし、後半部、「彼が私を連れ戻しにやってくる」って、難しいですね。意味がとれない。。。。


綺麗だけど触れないタペストリーのような人生を送っていた女の子が、ぼろぼろに傷ついた放浪者と触れ合い、同情心を感じます。(「恋」にまで行かないのがポイントです)

ここで謎なのが、この後に出てくる黒服をまとった「男」。
前半に登場する放浪者と同一人物なのか、それとも「運命」を象徴する人なのか、、、、。

ともかく、放浪者と出会い、同情したのをきっかけに、夢見る少女だった彼女のタペストリーはほぐれ、現実の世界へ連れ戻されていくのです。
つまり、この歌、どうやら、文学少女が現実と向き合うことの恐怖について歌っているように読めるのですね。


でも、もしかしたら、それは、すばらしいという気持ちも込められているのではないでしょうか。

世間を知り、恋をすることはジャンプと似ています。
ためらっていてはいつまでも新しい世界には行けません。
そんな覚悟の後に、「えい」と、思い切り良く崖から身を投じること。

そのジャンプは、恐ろしくもあり、すばらしくもある、というふうに、読みたい気がしています。


ところで。

小説のあとがきには、ディックの友人の、麻薬で死んでしまった人、廃人になってしまった人の名前がずらりと並べられます。

自身も麻薬に溺れ、また若い友人に自宅で麻薬を提供していたディック。その是非は一言では断じられないのですが、その結果親しい友人を何人も失ってしまったディック自身の深い喪失感が、小説にはにじんでいます。

ひさしぶりの投稿です。
なかなか調子が出ませんが、ぼちぼち書いていきます。

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2005年10月 8日 (土)

江戸ゴス

東海道四谷怪談を読み終えました。


江戸時代の戯曲なんて読みなれているはずもなく、ちょっと努力が要りました。
いろいろ重なって、たまたま自分の中で読みたい欲が高まったから、かなあ。


これには伏線があります。

まず、平田オリザさんの「忠臣蔵」と出会いました。

平田版忠臣蔵は、主君が切腹した知らせが入るところから始まり、「討ち入り」に行こうか、とみんなが合意するところで終わります。
ですから、映画なんかで取り上げられる「松の廊下」「討ち入り」などの派手なシーンは一切ありません。
家臣たちが、「困ったなあ」「どうするよ」、「君んちはいいけど、うちは息子小さいしねえ」、、、、、、、と、現代語で延々会議を繰り広げるだけの戯曲なのです。
でも、そうしたグダグダな会議を続けていくうちに、場の雰囲気が盛り上がってしまい、なんとなく討ち入りすることになってしまう。

これだけのパーツで戯曲として成立させてしまう平田さんの腕力は凄い、、、、。
「だらだら会議」、という日本的な決定システムの不思議さを感じる作品でした。


そうこうするうち、小林信彦さんの「裏表忠臣蔵」をブックオフで発見。
悪役の吉良は実はいい人、とか、内蔵助は部下の熱狂に「巻き込まれて」討ち入りの首謀者にされた、とか。
小林さんは、「第二次世界大戦に日本が踏み込んでしまった理由は何か」、という裏テーマを持っておられるので、視点のずらし方が平田さんとは違います。
が、忠臣蔵は日本社会の縮図である、というお話は共通しています。


で、さらにそうこうするうち、深作欣二監督の「忠臣蔵外伝 四谷怪談」の映画を雑誌かなんかで知ります。
(実はこの映画、いまだ見ていないのですが。)
このタイトルを見たとき、「そういえば四谷怪談の初演って、2日かけて、何幕かずつ忠臣蔵と交互に上演されたんだよな」、と思い出しました。

忠義=明の世界の「忠臣蔵」と、ピカレスクロマン(悪漢小説)の「四谷怪談」。
この両極が同時に進行するのがおもしろいんだと、誰か(多分、橋本治さん)が書いていたのを思い出したのです。

さらには、京極夏彦さんが「嗤う伊右衛門 」で四谷怪談を純愛物語としてひっくり返します。これは、堪能しました。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


という、長い長い前振りを経て、そういえば、原作って読んだことないなあ、と思い至り、挑戦してみたというわけです。

岩波文庫は、注がちょっと不親切で、ストーリーを理解するうえで大事な注のほかにも、何バージョンかある脚本のバージョン違いがやたら詳しかったりするので、読むとかえって混乱する注もあります。
正直、かなり骨が折れました。
最初の20ページぐらいは2,3回読み直しました。
あと、あらすじもネットで調べたなあ。

でも、そうやって慣れてくると、戯曲を読むのがいきなりおもしろくなってきたのです。


「両窓おろし」ってなんだかわかりますか?

岩波文庫の注によると、
「両窓おろし=客席二階、東西両桟敷の上部にある明り取りの窓。両方にあるから両窓という。それをしめて暗くする。幼稚な照明装置である」

ライトがない時代、暗転はこうやっていたんですね。

変な注もありますよ。
「月三両の三月しばり=毎月三両で三ヶ月間を約束した妾。今でいうオンリー」

・・・オンリーって、死語ですよね。ちなみに、注で言う「今」ってのは昭和31年のことですが。

そして、その後図書館に行って読んだのがこの本。
「歌舞伎大道具師」著者: 釘町 久磨次

これを読むと、四谷怪談ってのは、遊園地の出し物よろしく、ものすごく視覚的エンターテイメントがあったことがわかります。

仏壇からお岩さんが出てきて、恨みのある男を仏壇へ引っ張るとあっというまに消えてしまうシーン。
(仏壇返し、というそうです。)
殺され、戸板に打ち付けられたお岩さんが現れ、恨みを言って戸板がひっくりかえると、裏には小仏小平がうちつけられている。しかも、このお岩さんと小平は一人二役なのです。そして、最後にどくろになってばらばらに落ちる、、、(戸板返し)

戯曲を読むだけではどうなっているのかわからないこの仕組みが、図も交えてわかりやすく解説されています。
申し訳ないのですが、図がないとわかりづらいので、この仕掛けは読んでのお楽しみということにさせてください。


とまあ、いろいろディテールも楽しいのですが、やっぱりイエモンですね。

冒頭から凄惨な殺し。
そして、殺し方も油断させて後ろからとか、卑怯なんですよ。

これほど悪いやつが登場し、そして破滅していくのって、ものすごくカタルシスがあるんです。

あ、そうそう、タイトルの「江戸ゴス」。

江戸時代のゴシック小説は、歌舞伎にあった、って感じでつけて見ました。

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