日記・コラム・つぶやき

2009年4月27日 (月)

卵にできること。(エルサレムの村上春樹)

SMAPの草なぎさんが逮捕された時のこと。
突然のニュース速報に驚きました。

最初は、自殺か、薬物関係で逮捕されたのかと思いました。
それが、フタを開けてみたら「公然わいせつ」。

まあ、他人に迷惑をかけたわけだし、
やってしまったこと自体を弁護する気はありません。
が、気になったのは事件後のことです。

まずは、NHKがニュース速報にしたことに驚きます。
それだけの速報性が求められる事件だったのか。
そして、ニュースの街頭インタビューのピックアップのしかた。
「信じられない」「信じてたのに」「やっちゃいけない」だけ。
なぜか、「大変だったのね」「信じてます」系のインタビューはなしでした。

インタビュー自体は当然やらせではないんだけど、編集の段階で、
どの人の意見を採り、どの人の意見をボツにするかは放送局側の判断。
その意味で、一見公平なようでいて、いちばん編集主幹(=編集長)の
意向を反映しやすいのが街頭インタなのです。


そして、警察が飲酒を理由に家宅捜索をしたこと。
これ、かなり驚きです。
自分のこととして考えてみてください。
泥酔したせいで家宅捜索、って、、、、ここまでやっていいんでしょうか。

薬物関係を疑ったのはミエミエですが、結局何も見つからなかった。
ということは、「先行捜査をしていて、逮捕をきっかけに家宅捜索」、、、、
という展開ですらない。
ちょっとちょっと気になったから、捜索したという事です。
よく令嬢が取れたものだと思いますが。

これは、正直怖いです。


草なぎさんは、地上デジタルの『顔』だったわけで。
政治家、特に郵政族に気を使ったのではないかと思われてもしょうがない。
ちょっと残念な対応だったと思います。

草なぎさんは、きっと、何かすごく苦しいことがあったから、
やっちゃったのだと想像します。
それが何かは、あんまり知りたいとは思いません。

彼の生活のかなり深いところまで知らないと、
ホントの理由は理解できないでしょう。
彼に一生関わっていく愛情と決意がある人じゃないと、
「知りたい」と思ってはいけないような、おおごとだったと思うのです。

それを、「これをやっちゃったらもう人生おわり」みたいな感じで、
一斉に糾弾するのはいかがなものか。

「きっとなにか、すごくたいへんなことがあったんだよ」
「でも、今はそれがいいとも悪いとも判断できないよね」
「まあ、次は気をつけてね」
という、ゆるいスタンスに立てる健全さが欲しかったと思いました。

(後記
東京都知事、大阪府知事、ニュース23の草野さん、など、
同情的なコメント・報道もあったようです。ちょっとほっとしました)

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とまあ、珍しく時事的な話をしてしまいましたが、
村上春樹さんのスピーチのことが頭にあったからです。

村上さんは、先日のエルサレム賞の授賞式でのスピーチで、
有名な「卵と壁」発言をしています。

(こちら「【英語全文】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演」から一部を引用します。)


(以下、「みみをすます」が翻訳)

「もし高く頑丈な壁があって、そこに卵がぶつかって壊れるなら、ぼくは卵の側に立とう。」

そうなんです。
壁がどんなに正しくて、卵がどんなに間違っていたとしても、ぼくは卵の側に立ちます。
何が正しくて何が間違っているか、決めなくてはいけない誰かさんもいるでしょう。
たぶん時間や歴史が解決してくれるのかもしれません。
でも、もし小説家が、(理由は何であれ)壁の側に立ってしまうなら、その作品にどんな価値があるでしょうか。

卵と壁とは、何を象徴しているのでしょうか。

あるケースでは、とても単純明快です。
爆弾、戦車、ロケット、白燐弾がその「高い壁」です。
「卵」は、傷つき火傷し撃たれる、無防備な市民です。

でも、話はそれだけではありません。もっと深い意味があるんです。
こんなふうに考えてください。
私たち一人一人は、多かれ少なかれ、卵です。
私たち一人一人は、壊れやすい殻の内に、ユニークでかけがえのない魂を閉じ込めています。
私もそうだし、みなさんもそうです。

そして、私たち一人一人は、多かれ少なかれ、高く頑丈な壁に向かい合っています。

その壁の名前は、「システム」です。

システムは、私たちを守ってくれるかもしれませんが、時に自己増殖し、私たちを殺し、私たちに誰かを殺させるのです。冷たく、効果的に、システマティックに。

(以上、翻訳おわり)

“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.”

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will do it. But if there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?
What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.

But this is not all. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: it is “The System.” The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others--coldly, efficiently, systematically.

ふう。
翻訳して疲れましたが、もう、これ以上言い添えることは残っていない気がします。


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少し話をそらし、アタマを休めてみましょう。

このスピーチの中で、村上さんは、

"The wall is too high, too strong--and too cold. "
「壁はあまりに高く、あまりに頑丈で、、、あまりに冷たい」

と言っていますが、ここで私はピンクフロイドの"The Wall"を連想してしまいました。

この中の"Hey You"という曲に、"The wall is too high as you can see"という歌詞があります。

このアルバムは、「壁のレンガ」となってシステムに組み込まれる事を拒否した子供が、
学校という管理社会の中で壊れていくというコンセプトアルバムです。

あんまり話がそれませんでしたね。

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壁=システムとは、草なぎさんの件でいえば、マスコミや警察。

システムは、いろいろ私たちのためになることもやってくれますが、
一歩間違えば、効率的に個人のこころを押しつぶす装置になります。
そして、一歩間違うのは割と簡単。

だから、村上さんは「卵が間違っていたとしても卵の側に立つ」と、
一見乱暴なことを言います。
でも、この点については、わたしは100%村上支持です。


私たちが、気をつけなくてはいけないことが一つ。
それは。

多くの卵は、壁の一部分として、システムを動かしているのです。
ナチスのユダヤ人虐殺を、「優秀で善良な小市民」が担ったように。

自戒を込めて。

そうそう、先日もちょっと書いた村上さんの新作、『1Q84』。
発売日も5月29日と決まったようです。

ジョージ・オーウェルの『1984』と同じく、管理社会とその暴力がテーマだとすれば、
いよいよ楽しみになってきました。

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2008年6月28日 (土)

あいだ はざま スペース

この1年ぐらいかな、渋谷の駅前で”FREE HUGS”と書かれた紙を掲げて立ち、フリーハグズ!と叫んでいる若者を見かけるようになりました。
そして、通りがかりの人がOKなら、互いにハグする(抱き合う)のです。ハグとは、挨拶的な抱擁のことですね。

最初は、なにかの宗教活動かと思っていたのですが、気になってネットで調べたら全然違いました。アメリカ(オーストラリア?)の男性が始めたキャンペーンらしいのですが、社会運動でもないし、思想信条のアピールでもないし、あえて言えば身体メッセージかな。

一人の男が、「フリーハグ」というパネルを持って街を歩き、見知らぬ人とハグするという運動を始める。次第にハグを受ける人が増え、同じようにパネルを持って街に出る人も増えてきて、やがてこのキャンペーンは世界に広がっていった、ということです。U-TUBEにも、その過程をナレーションなしの音楽ビデオにまとめたものがあがっています。このキャンペーンが世界中に広がったのも、クチコミというより、このU-TUBEによってということらしい。

ハグすることの意味はオープン(一つに決めない)にされています。
たぶんあえて、でしょう。でも、ハグという身体的接触から生まれる安心感や、言葉を超えたコミュニケーションであること、たまたまであった見知らぬ相手と一対一で行うこと、その一瞬の出会いが全てで後をひかないこと、などから、いろいろ判りやすい説明はできそうですね。
そうそう、性的なニュアンスはまったく感じられません。
とまあ、こうして考えてみると、改めてすごく素敵なコンセプトだと思います。

先ほどそのU-TUBEのビデオを見ていたら、なぜ私が日本の「フリーハグ」に乗れないかわかりました。
ビデオでは、(たぶんオーストラリアの?)街角でパネルを持って歩き、自らハグする相手を探しているんですが、日本版の方は、数人のグループで、駅前に立って、相手を待ち構えているんです。たぶん、この「数人」で「待ち構えて」「一緒にやろうと誘われそうな雰囲気」が嫌なのです。
フリーハグのパネルを持つ人は、通行人に一対一で向き合ってほしい。集団じゃあ、サークルへの勧誘です。そう、宗教団体の勧誘と勘違いしたのも、それが原因ですね。個人になる度胸がないボクちゃんたちとハグしてもしょうがない。

独立した個人がそれぞれやれば美しいことなのに、それを集団でやることで美しさを貶めている、という気がしたわけです。あー、自分の不快感の原因がわかってすっきりしました。
というわけで、フリーハグは一人でどうぞ!私も、1人で立っている人がいたら、こんどは逃げずにハグしてみてもいいと思っています。


いやあ、長いマクラ、というかこれでもう完結してるような話になっちゃいましたが、実はそんな話をしたいのではなかったんでした。
日本人って、よく他人と接触するのが苦手とか言われますが、実はもともと他人と触れるのに抵抗を感じない民族なんじゃないか、ということです。

先日、渋谷のスクランブル交差点を渡っていて気がついたことがあります。とにかく、渋谷は(というか日本は)よく人とぶつかる街なのです。袖摺りあうも他生の縁と言いますが、渋谷の交差点を渡ると何人と袖を摺りあうことか、、、、。
ニューヨークでは、歩いていてちょっとカバンが触れただけでも必ず"Sorry"と声がかかります。でも渋谷は、何というか、わざとちょっとだけぶつかりながら、それでいてぶつかったことを無視しながらみんな歩いているんですね。

そういう目線で渋谷のスクランブルを歩いてみると、日本人がいかに上手にぶつかりながら(でも歩けなくなるほどの衝突はないようにしながら)歩いているかが分かって、もう感心するばかりです。
でも、気がつけば私も人と人の間の狭いすきまをムリにすり抜けようとしているし、向こうの人もちょっと触れるぐらいの微妙な距離までは体をそらしてくれる。私の中にも「軽くぶつかるけど無視」な感覚が刷り込まれているのです。

元ニューヨーカーで今日本在住という人に聞いてみても、やっぱり渋谷のスクランブルでぶつかりながら歩く感じは不思議だし、ストレスを感じるそうです。そういう話を聞いたら、これまでは平気だった私も、混んだ道を歩くのが苦痛になっちゃって困っていますが。。。。

また、地下鉄でも同じことを感じました。ニューヨークでも、当然地下鉄が混むことはあるのですが、その時に日本の満員電車のように、他人によりかかって体を支える感じはないのです。とにかく他人と接触している部分をなるべく最小限にすべく気を使って、「私はなるだけ体をそらす努力をしています」、とアピールながら乗っている感じがあります。(満員電車でスシヅメという状況は同じなので、あくまでも感覚的なことなんですが。)

人種も考え方も多種多様で、互いに分かり合えないというのが前提だからこそ、相手の空間を侵すことに慎重になるのかも知れませんね。

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2008年5月 8日 (木)

再びの

3月に続き、またニューヨークにいくことになりました。
これから飛行機に乗ってきます。

今度は春らしい陽気を期待しているのですが、天気はどうかな。

いつもの通り、予習をあんまりしていないのですが、ちょっとのぞいたウエブでは、ブルーノートニューヨークのLionel Louekeというギタリストのブルーノートデビューライブ、Charlie Hadenのトリオなどが気になっています。仕事で行くので、どれぐらい余裕があるのかは未知数ですが、時間さえあれば、睡眠よりもライブを選びます。たぶん。

では、いってきます。

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2008年3月23日 (日)

ターバンを巻いた運転手

トム・ハレルを聞きに、ライブハウス「スモーク」へいったときの話。
地下鉄で行く手もあったのですが、店が駅から若干離れていたのと、雪が降り始めていたので、タクシーを使うことにしました。場所は、ブロードウエイ沿い、105番と106番ストリートの間。すごく大雑把に言うとマンハッタン島の北西です。


泊まっていたミッドタウンのホテル近くでイエローキャブを止めて、行き先を告げると、ドライバーはうなづきもせずに走り始めました。
でも、なんか様子が変。運転しながら聞き取れないことをずっと言っているのです。ドライバーはインド系の顔つきでターメリック色のターバンを巻いて、かなりの速度で飛ばしていきます。
あ、電話してるのか、と思って、「誰かと話してるんですか?」と聞いてみましたが、忙しそうに首を横に振るだけでしゃべり続けています。確かに携帯も持っていないし、イヤホンもマイクもないようです。さらに不安になって、「私に何か話しかけているんですか?」と聞くと、その時だけしゃべるのをやめて、「NO!」と一言。とりあえず、走っている方向はまちがっていないけど。。。。
そのとき、もしかしたらドライバーはヒンディー教徒で、今はお祈り中なのかもしれない、と思い当たりました。とりあえずそのまま黙っていると、そのうちに、「ここだよ」と一言。
場所が間違っていないのを確認して、お金を払いながら、「お祈りしていたんですか」と聞くと、無言でうなづく。お金を渡すと、初めて「ありがとう」と笑ってくれて、ちょっとほっとしました。
おつりを返すと、彼はまたお祈りをはじめながら、猛スピードで走り去っていきました。


という前段があって、先のトム・ハレルのライブを聞いたというお話になるわけです。

ちなみに、スモークはとても気に入りました。私が入ったのがファーストステージが終わって間もなくだったので座れないでいると、レジそばのいすを空けて座らせてくれました。そして、先客が帰ったタイミングで、「もしよければ席を替わってもいいよ」と、ステージに近いカウンター席を指差してくれたのです。客層も音楽好きの人たちばかりで、しかもニューヨークは禁煙も徹底しているので、タバコを吸わない私には天国のような空間でした。おすすめのモヒートと、ワインを2杯ですっかりいい気分になってしまいました。

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2007年1月14日 (日)

ねじまき鳥の鳴き声

東京渋谷で、いやな事件が続きました。

ニュースをみてすぐに思い出したのが村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」でした。

この小説の中に、昔は何軒かの家の裏口をつないでいた路地が、都市開発が進む中で道の両方を塞がれてしまっい、誰も入れない「袋小路」(デッドスペース)になってしまった空間が出てきます。「風水的に言えば、、、、」、なんて理屈を立てなくても、風が通らない、とても閉塞的な場所です。
主人公は、この袋小路をさまよう中、自分でもおさえきれない破壊衝動で彼を翻弄するチャーミングな少女や、異次元とつながる井戸と出会うことになります。主人公は、この道を時々さまよいますが、そこには小市民的な幸せを感じる裏庭もあれば、壊れてしまった幸せを感じさせる裏庭もあります。自殺があったり、家庭が崩壊したりと、とても不吉な、できれば見たくない場所。その庭には、空へ飛び立とうとしても飛べない、鳥の彫刻が羽ばたいていました。


これはワイドショーネタなのでウラがとれていないお話ですが、死体の一部を遺棄したのは、渋谷区神山町の誰も住んでいない家。そこへ、まさに春樹的な裏道があり、そこを台車に死体を乗せて運び、埋めたということです。埋めた死体の上に植木鉢を置いたというのが印象的でした。

この報道を聞いたときの私の衝撃を、どう言葉にすればいいかわかりません。
ふと、村上春樹が「ねじまき鳥クロニクル」で予見した、日本の家庭がかかえる闇を感じたのです。

それぞれ、細かい事情は異なる、裕福な家庭を舞台にしたディープな事件です。もっと取材が進めば見えてくるところもあるでしょうが、たぶんいくら取材が進んでも見えてこない闇の部分を抱えた話だと思います。

「みみをすます」とはそぐわない話題なのかもしれませんが、世の中に自分が考えなくてはならないとても大事な動きが起こっている気がして、書いてみます。

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2006年7月14日 (金)

転勤

7月末の転勤が決まりました。
どうなることやら。

しばらく引越しなどで投稿するヒマがないと思いますが、落ち着いたらいつものペースで再開したいとおもっています。

てなわけで、今後ともよろしくお願いします。

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2005年11月15日 (火)

今日、公園で

今日、公園で、子供が、
「これ、魔法の砂なんだよ。落ちる前に消えるんだよ」
と、さらさらの砂を目の高さから落としていました。


砂は、子供の手から、風に舞って消えていきました。

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2005年9月23日 (金)

あくび一回5千円。(困笑)

きのう、あくびをしたら、あごが外れました。


こんな感じです。

あーーあ、、、、、、、、(あくび)。

、、、ふふぃふぁふぉひふぁい、はふ、、(口が閉じない!はふ。)

、、、、、、、
ちょっとでも痛ければもっと悲壮感とかあると思うんですが、全く痛くないんです。
口が3センチほど開いたまま閉じないので、よだれは止まらないし、しかも、まさに仕事のヤマが始まろうというタイミングだったので、困りました。

同僚が、ごく普通の感じで話し掛けてきます。
「これ、どうしようか」

あわてて、近くの紙に走り書き。

「あごが外れた」

同僚は、「ははははっは」。

いや、冗談じゃなくてホントナンダヨ。
また、走り書き。


「いや、マジで。」

同僚は、驚いて、「えっ?」

で、走り書き。

「全然痛くない。大丈夫。
しゃべれないから病院の予約とって」

というわけで、病院に行きました。
あごが外れたということを伝えるのに、いろいろ筆談があった挙句、入りもしないレントゲンも要らないと言えず、結局先生に会うまで1時間ぐらいは外れたままだったかなあ。

先生は一目見て、

あー。

と言って、すぐにはめてくれました。わずか30秒ほどの早業でした。
でもレントゲンなど撮ったためか、4700円も請求されてしまった。

えらく高くついたあくびでした。

疲れるとあごが外れやすい体質らしく、私はこれが2度目。
以前は、へとへとの状態でプールで泳いでいて、クロールの息継ぎをしたとたんに「ガク」。

このときも、プールの監視のお姉さんに筆談したり、挙句の果てはスポーツクラブの館内放送で医者を呼んだりと(このとき、たまたま泳いでいた人の中に形成外科(?)の先生がいて、ただで直してくれました)大騒ぎだったことを思い出した。

前回も思ったけど、少しでも痛ければ、こんなにオマヌケな気分にはならないだろうな。
ひたすら、恥ずかしい1時間でした。


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2005年7月 1日 (金)

痛みを言葉にするノウハウ。

先日腰が痛くて病院に行ったのですが、その傷みがなんとも言葉にしづらい感じのものでした。
苦しくてうめいてしまうほど辛いんですが、いわゆる腰痛の痛みとは全然違って、動ける。階段を上がったり下りたり、よこになったりとじたばたして苦しんでいました。

1,2時間で痛みの峠は過ぎて。

病院の先生が「どんな痛みですか?」
「上手くいえないんです」
「じっとしていられないくらいの痛みですか?身動きできないほどの痛みですか?」

両方、痛みの極限をあらわしているのに、一方は動けない痛み、一方はつい動いてしまう痛み。

まさに的確。言いえて妙。
さすが、プロ、と思いました。

ちなみに、病名は腎臓結石。命に別状がないということでひと安心。

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