みみをすます

2009年3月27日 (金)

『私は作者ではない』

夏目漱石に『夢十夜』という作品があります。
「こんな夢を見た」という書き出しから始まる、10の幻想的な掌編連作です。

この中に、運慶(平安~鎌倉に活躍した仏師)が仁王を彫っているのを見物する話があります(第六夜)。
運慶が無造作にノミを振るうと、たちどころに見事な顔が彫りあがってくるので感心していると、野次馬の一人が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と言います。
なるほどと思った主人公(漱石?)は、家で何度も樫の木を削ってみたものの、仁王は出てこない。
そうか、明治の木には仁王が埋まっていないのか、と納得するというお話です。


「この作品は自分が作ったのではない、掘り出しただけだ」、という言い方は、今でもよく聞きます。

これは、なかなかにかっこいい言説です。彫刻は、自分が掘り出す前から木の中に埋もれていたのであって、
自分はそれがこの世の中に現れるのを手伝っただけにすぎない。
自分は、産婆、触媒、霊媒、メディア、medium、通過点、、、、なのだ、と。

そういう、「透明な自分」をわざわざ強調するウラには、「作者が何らかの意図を込めて作品を作ることは美しくない」、という考え方があると思われます。

でも、意地悪く見れば、「私の作品は、作為がなくて、それゆえに、より自然な、神に近いものですよ」という自己主張が込められていないでしょうか?
私には、その主張は傲慢に感じられるのですが。
そして、何か大事なことをごまかされているような気がします。

なぜなら。
他の人が同じようにノミを使って、同じ仁王を掘り出せるなら、その言い方は正しいでしょう。
でも、運慶以外にはその仁王が掘り出せないなら、つまり、運慶がいなければ、この世に存在していなかったものなら、そこには作者・運慶という表記が添えられるべきではないでしょうか。

もっと言えば、作者がどう思っていようと、鑑賞者は作品の中に作者の姿を見る、ということです。
つまり、実際にノミを振るった運慶が何と言おうと、見る人はその作品に作者を見てしまうのです。

作者が、この作品は、「不自然に」作られた作品とは違うんだ、と差別化しようとしても、それは鑑賞者には伝わらないのです。

ある作者の作品が、2つ以上あるとき、たぶん問題は表面化します。
鑑賞者が、二つの作品の作者がを同じだと知るとき、初めて、鑑賞者はそこに物語を感じ始めます。
「感動」「物語」「一貫性」を感じるための装置です。

今、気がつきましたが、作者名のついた名札だけあれば作品になる!
たとえば、何もない壁に、私は息を吹きかけます。で、次々と「080215,12:25:30 山田太郎」 「080215,12:27:00 山田太郎」と、壁に名札をつけます。
数字は、たとえばそこに息を吹きかけたときの時間。

作品名だけの作品。川原温よりカゲキです。

これだって、コンセプチャルアートとしては、「あり」です。

なんだか話がどこへ落ちるのか見えなくなってきていますが。
要するに、「私は作らされたのだ、作ったのではない」という言い方、胡散臭いですよね、というお話でした。

この話、別に具体的なアーティストを想定して書いているわけではありません。
今、とても気になっているのが、「作者」「記名性」の問題です。少し書いて、整理してみたくなったのです。


さて。
これを書きながら考えていたもう一つのこと。

先日、秋田での幼児殺害の報道が心にひっかかって離れません。
メディアによってばらつきがあるので、真実性には疑問があるのですが、被告は「どう反省したらいいのかわからない」状態だ、という記事があります。
ネットで見るとスポニチやいくつかの地方紙に掲載されているようなので、通信社の配信記事でしょうか。

「どう反省したらいいかわからない。」
もしかしたら単に無責任な言葉なのかもしれませんが、「やってしまったことがあまりにも大きすぎて、どうして償えばいいのかわからない」という意味だとしたら、それはある意味真実の言葉かもしれません。


漱石の話から、秋田の話。
自分の中でも、どうつながっているのか判りません。でも、確かにどこかでつながっている気も、するのです。

つづく、かも知れません。もしかして。

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2008年11月16日 (日)

ぞうをなでる(色覚について 3)

Elephant


群盲象を撫ず(群盲象を評す)ということわざがあります。
目の見えない人が、象のしっぽを触って「ほうきみたい」、キバを触って「石みたいだ」と言いあっても、全体は見えない、という意味です。

このことわざ、私は傲慢で嫌いです。
これを口にする人は、自分以外は誰一人全体を見ていない、自分だけが全体を見渡せている、という確信があるはずですね。他のメンバーとは1次元上の、「超越的」な立場にいる自信。根拠なしの。

まあそれはさておき。
実際みんなで象をさわる事態を想像すると、おそらく、「象ってのは石だ。ほうきじゃない」と言い張る人はあまりいないでしょう。「石だ」という人と「ほうきだ」という人がいれば、「象ってのは、石のところと、ほうきのところとあるんだ」と考えるのではないでしょうか。
さらに、象のお腹を触った人が「タイコみたいだ」と言えば、「石、ほうき、たいこ、みたいなところが合わさったものなんだ」と思うでしょう。世界の全てを見ている人はいないわけですし、大概の社会生活(&学問)は、こうしてみんなの認識をパッチワークすることでできています。

さて、もうさんざん繰り返してきた話ですが、ここには、同じ物を触れば同じ感覚を得る、という前提があります。
ぐるぐると遠回りしていますが、色覚の話に戻れば、、、、
色覚の特殊(で不気味)なところは、社会生活を成立させている感覚、つまり、「私と他人は同じ世界に生きていて、同じ物を見れば同じように見える」という感覚が否定されるからです。
そして、そういう共有感覚があることは、あまりにも日常生活の深い深い土台なので、そこを否定されると、あらゆる日常生活の土台が崩される気がする。
先ほどからの象の比喩で言えば、Aさんがホウキだと言ったものにBさんがさわるとタイコと感じる、という状態です。共有感覚を否定されると、じゃあ、今俺たちの前にあるこの巨大なカタマリは何なんだ、という話になってしまうわけです。

もうひとつ、別の例を挙げます。
デートで、二人が同じ映画を見て、二人とも感動して涙を流したとします。最初はお互いに、「同じ事に感動したんだ、気が合うなあ」と喜びます。
でも、後でゆっくり話してみると、なにやらおかしい。話をしてみると、涙を流した理由が、二人で全く違う事がわかりました。私は映画の親子関係に自分の経験をなぞらえて感動していたのに、相手は自分の田舎の風景を思い出して泣いていた!気が合うなんて、全然誤解だったじゃん!!

そして、その夜、ふと気になります。「今日見た映画は、二人、全然違うところで感動していたんだなあ。でも、そういえば、先週も二人で映画を見て、二人で感動したんだけど、あれも、もしかして同じ誤解なのかな?そうすると、先々週見た映画は、、、、???」
恋愛では、相手と自分の共通点が見つかるととても嬉しいし、それが相手を好きになる大きな理由にもなるのですが、、、、、実際相手がどう感じているのか。それをいちいち確かめるのは不可能です。ほんとに自分と相手はセンスが似ているんだろうか。そもそも、自分は相手のことがホントに判っているんだろうか。

この疑いは、どこまでも増殖します。これに取り付かれると、しまいには二人の出会いにまで遡って、「私はあの人が大好きだと思っていたけど、もしかしたら、それって全て誤解なのかもしれない」という、恐い考えにたどり着いてしまいます。
そして、恐ろしい事に、それは論理的には正しいのです。私は、あの人のことをわかり得ないということ。ここまでたどり着いてしまうと、もう、次のデートが恐くなってしまいます。
昨日までは相手の気持ちがしっかりわかっている気がしていたのに、、、、、。

相手の頭の中には入れないのは自明なことです。相手のことが100%わかるなんて、ありえないことです。(まあ、そういうありえないことを望んでしまうのが恋愛ですが。)


でも、ここから話は逆説めきますが。
、、、、だからといって同じ感動を共有できた(と思った)喜びを否定するのは、おかしな事だと思うのです。

100%わかりあう状態なんてありえないのだけれども、でもその悪条件の中で相手にしっかり向き合って、自分なりに相手が理解できたと思った実感は、最も100%に近いこと、最も確かな事なのです。
何より、相手をわかりたいと思った自分の気持ちが真っ直ぐなのであれば、その時の喜びを否定するのはばかげています。それ以上確かな喜びはこの世に存在しないからです。

他者への命がけのジャンプ。
自分の感覚にみみをすまして、(もしかしたら誤解かもしれないけれども、)自分にとってこれ以上確かなものはないから、信じてみよう、という勇気を持って、自分の感覚に賭けて相手と向き合うこと。

ようやく色覚の話に戻りますが、私は、自分の色覚についても似たようなことを考えています。
自分はどうやら、みんなとは違うふうに見えているようだけど、だからこそ、時々みんなと同じものに感動できる(できているらしい)ことは奇跡に近い事で、そういうことが起こること自体が感動的なことなんだ、と。


ちょっといつもと違うタッチになってしまったようです。
何度も書き直したりして、えらく時間がかかってしまったのですが、とりあえずこれを上げないと次へ勧めないなあ、と感じていたので、無理矢理にとりあえず終わらせました。またいつか、上手く書ければアタックしたいですが、とりあえず、次回からはもう少し軽い話をめざそうかな。

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2008年9月17日 (水)

あなたと私は見ている世界が違うのかしら。(色覚について、1)

小学校の時に色覚検査を受けたときのこと(歳がバレますね)。ほかの子が苦もなく読める検査票が、私には読めませんでした。
でも、もっと驚いたのは、ほかの子に読めない検査票が私には読めたことでした。


私は赤緑色盲です。色弱、という診断をされた事もある気がするのですが、そのへんは昔のことで、どっちだか忘れてしまいました。

赤緑色盲というのが具体的にイメージできないという方のために、どんなものか説明します。文字通りに言うと、赤と緑の区別がつかないということです。でも、実際はもうちょっと微妙です。
私の場合は明瞭な赤と緑は判別できるのですが、暗かったり淡かったりすると自信がなくなります。また、そういう微妙な色だと、緑、茶、赤、紫などの区別がわからないことが多いようです。

日常生活で困ることは、「焼肉の食べ時がわからない」「淡い紫の服をブルーだと思って買ってしまう」「東京の地下鉄の路線図が読めない」「赤ボールペンの字が黒ボールペンの字と区別できない」などなど。
そういえば、幼稚園の頃は、クレヨンの肌色と緑の区別がつかず、肌を薄い緑に塗って注意されたりしていました。

まあ、日常的に困るのはボールペンでしょうか。よく見ると黒より淡い色に見えるのですが、たぶん多くの人に見えているように「赤の文字が黒より目立つ」というのが、実感として全くわかりません。
あと、好きな色がブルー系なのですが、これももしかしたら、自分で見分けがつく色だから好きになっているのかもしれませんね。


私は幸い、何十種類もの色ケーブルを見分けて接続するとか、カラーバーを見ながらテレビの色を調整するとか(いわゆる「カラーバー」は、私にはいくつかのバーの区別がつきません)という仕事にはついていないので、日常生活ではあんまり苦労した事がありません。

さて、話は冒頭に戻って、友人に見えない文字が自分に見えたという経験。この経験は、今の私の物の考え方にも深く関わっている気がするのです。


、、、、、話途中ですが、思わせぶりに、「続く」にします。とても眠いので。
最近、すごく忙しいのですが、今日は異常でした。
家に着いたのが朝5時。でも、こういう時のほうがブログを書く気になるものですね。
この話をしようというのは先月から考えていたのですが、こんなヘロヘロの状態で書いた文章を上げていいのか、若干悩みます。
ちなみに明日は8時起き。さて、もう寝ます。
続きは、、、なるべく早いいつか、ということで。

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2008年8月18日 (月)

「いい話」の誕生

オリンピック競泳で金メダルをとった北島選手が、試合後のインタビューに答えていた言葉。

「続けられたきっかけとか、なにか自分を変えたできごととか、よく聞かれるんですけど、期待されているような、ドラマみたいなものはないんです。4年間に向けての一日、一日があるだけで。まあ、オリンピックが、すごく好き、というだけなんで」
一言一句正確ではないのですが、だいたいこんなことを言っていたように思います。


インタビューの場では、テレビが「わかりやすさを求めるメディア」であるために、何かをなんとか説明しよう、位置付けよう、いい話にしようとする力が働きます。だから、テレビでは、意外な出会いとか、何かを決心した瞬間とか、感動的なエピソードが喜ばれ、そこを切り出して何度も放送されるわけです。(だから「イイ話」の賞味期限が切れるのも早いのですが。)
もともと、テレビというメディア自体がそういう傾向をもっていて、またその傾向に上手く答えられる人が語るのが「いいインタビュー」、という図式があるのです。


いわゆるヤラセとは違って、そこには嘘はない。でも、事実だとしても、ある部分だけを強調されることで、語った人の実感とは限りなくズレていきます。

その力に真正面から抗って、自分の体験をできるだけ正確に言葉にしようとする北島選手。
プールを離れても自分のスタイルを貫く北島選手がとてもかっこよく感じられ、とても興味深いインタビューでした。

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2008年6月 8日 (日)

「Cocoo(虚空)」に捧ぐ

私がとても好きだった店が閉店しました。もうないお店なので、実名でいきます。
Cocooと書いて「コクー」。
かわいらしい店名だなあ、と思っていたら、実は

「大学で仏教哲学を専攻していたもので、「虚空」という名前にしたかったんですが、なんか硬いんで、COCOOにしました。」
「よく、「コッコ」と間違われるんですよ。でも、コクーです。」
と、若いマスターに教わりました。

なんて話を受けて、私も学生時代仏教哲学をひとコマとったことを思い出しました。(ひとコマだけですが。)
龍樹(ナーガルジュナ)の著作『中論』では、この世の全てには実体がなく、虚空である、という論が展開されていました。
その時の授業は今思ってもユニークなもので、授業の一番最後のリポートは、龍樹の『中論』とミヒャエル・エンデの『モモ』について述べよ、でした。
エンデは東洋思想に深く影響された、というか、着想も含めてかなり根底に東洋思想があった人でしたから、あながち見当はずれとは言えません。

話がかなりそれましたが、そのお店がやたら真っ暗なのです。
明かりは、(たぶん調光機で絞った)裸電球一個。これではメニューも読めないので、グループに一個ずつ小さなキャンドルが付けられます。
手作りのスピーカーから、昔のソウルミュージックや宗教音楽などが、独自の耳で選ばれていました。ここで教えてもらって、愛聴盤になっているものもあります。
たとえば、



JAZZMANというレーベルから出ているコンピ、"What is Wrong With Groovin'"。ドーナツ盤のレア曲をとても丁寧に発掘していて、どのCDも最高なのですが、特にこのアルバムは、ギターやドラムのエコーの感じがとっても「音響」的で、大音量、いい音で聞くと最高です。

あと、オノセイゲンの「サイデラ」レーベルのアルバムもよくかかっていました。要するに、とても音に集中できる環境のお店だったのです。

そういうわけで、私も、このお店に何枚かアルバムの紹介をしました。たとえばこれ。


Dead Can Dance "Toward the Within"

おっ、アマゾンで調べたら、今年の7月に紙ジャケットで再発されるようです。紙ジャケットはなんとなく好きになれないのですが、それはそれとして、また注目を集めるタイミングなのかもしれませんね。
これは、4ADというイギリスのレーベルからのアルバム。80年代中盤から、コクトー・ツインズなど、耽美的(いまやちょっと恥ずかしい誉め言葉ですが)なアルバムを数多くリリースし、ある時代を作ったレーベルです。(これは90年代中期のアルバムですが。)
この「デッド・カン・ダンス」(バンド名は、「死者も踊れる」、という感じなのでしょうか?)にけっこうはまっていました。いわゆる耽美だけではなくて、ケルトやペルシャなどの民族音楽のエッセンスを、メロディー、楽器、歌唱法(ヨーデルみたいな歌い方まで、、、、)もろもろに取り入れていて、かなりプログレっぽいところもあります。
でもそんな理屈をこねずとも、端的に「かっこいい!」と思える、おすすめのアルバムです。静かなところも多いですが、強烈な盛り上がりもやってきます。

さて、
このアルバムには「ペルシャン・ラブ・ソング(Persian Love Song)」という曲があります。おそらく、題名どおり、ペルシャのラブソングのカバーなのだと思いますが、そこから、こんどはこのアルバムを連想しました。
David sylvian "Brilliant Trees"

この3曲目の"Nostalgia"のイントロが、Dead Can Danceの上記のアルバムのなかの一曲、"Persian Love Song"と全く同じメロディーを使っています。節回しも同じなので、どちらかがどちらかをサンプリングしているのか、それとも共通のサンプルソースを使っているのかもしれません。
このアルバム、よく癒し系とか言われますが、そして、まあ実際そういう聞かれ方もできますが、内に込められたオーガニックな力に圧倒されるアルバムです。
たとえば。
木が静かに静かに枝を広げて行くときは、激しく自己主張することもないので、一見物静かで恐ろしくもなんともないように見えます。が、ひとたびそれを止めようと思うと、その力の巨大さに圧倒されるでしょう。誰もそれを抑えることはできない、、、、。オーガニックな力といったのは、そんな、恐ろしさを秘めているアルバムだからです。


そして、最後の連想、これは単純にタイトルからの連想ですが、Cocooのマスターには、"Persian Love"という名曲が入ったこのアルバムも勧めたことがありました。
Holger Czukay "Movies"

ホルガー・シューカイ(チューカイ)は、カンという伝説のロックバンドのベーシスト。
このアルバムでは、短波ラジオのテープコラージュと一緒に演奏するというかなり実験的なことをしていますが、「ペルシアン・ラブ」はとてもポップでせつない名曲。
むかし、ヤン富田さんのライヴで、生で短波ラジオをかけて演奏していた、とか、コーネリアスのライブでオンエア中のテレビの映像を使ってVJをしていた、なんて話の根っこには、このアルバムがあるのかもしれません。

ラジオとの競演ということで、「即興性」も問われるのでしょうが、聞いていると、それよりも、海の向こうで流されている曲と一緒に音楽をやっているという「同時性」がより強く心に残ります。この「ペルシアン・ラブ」の切なさは、そんなところからきているのかもしれません。


Cocooのマスターは、親の介護のためにいったん田舎へ帰るとのこと。
またいつか、あの空間で、音楽を聴いてみたい、です。それまでお元気で。

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2005年8月28日 (日)

裸足でドライブ

昨日、台風一過の炎天下の中をクーラーもつけずドライブしていました。

ふと思いついて、裸足でアクセルを踏んでみました。すると、いつもの靴越しとは全く違う感触。

アクセルの微妙なアソビとか、踏み込みに応じて微妙に歯車が回る感じとか、ものすごく、「機械を操作してるんだ!」っていう感じが新鮮でした。

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